ところでその頃、大西洋・ヨーロッパ戦線――これには地中海・北アフリカ戦中東戦線が付随していた――と太平洋戦線という2つの広大な戦線に物資や兵員を送り出していた合衆国は、財政的疲弊のどん底にあった。4〜5年間にわたる戦争経済・戦争財政に倦んだ市民たちはすっかり厭戦気分に陥り、1944年になると戦時公債はほとんどさばけなくなっていた。
空っぽになった国庫を埋めるためにドル紙幣を増刷したものの、それはインフレとドル信認(為替相場)の暴落を招いていた。
もっとも、強国のなかで政府財政の状況を冷静かつ客観的に把握していたのは、アメリカだけだった。
ほかのヨーロッパの列強諸国家は、もはや国家財政の状況も経済の状況についても把握できないどころか、全面的な破綻・麻痺・崩壊の淵に追いやられていたのだが。したがって、世界戦争に巻き込まれた国際金融システムは解体・麻痺状態にあった。
その意味では、財政危機を解決しようと企図していたことは、軍事的に優越した地位にあるアメリカなればこその立場を意味していた。
連邦政府は、アメリカの優位を如実に示して民衆に戦勝の可能性を強く意識させ、ドルと連邦政府公債――戦勝国となりうるからこその利回り――への信頼を回復させ、愛国心を高揚させながら「公債購入が愛国者の義務である」という世論を喚起しようと四苦八苦していた。
おりしもそこで注目されたのが、硫黄島の山頂に星条旗を掲げる6人の若者たち写した報道写真だった。
財務省のマニジャーは、その若者たちを「国民的アイドル」に仕立てた公債売り出しキャンペインを展開する作戦を計画した。
そのために、写真に写っている兵士たちを急遽、本国に帰還させることになった。
ところが、激戦の硫黄島で上陸後1週間後に生存していたのは、わずかに3人だった。
そして、戦場と本国のやり取りは混乱したために、レニ・ギャグノンとジョン・ブラッドリーにはただちに帰国命令が伝えられたが、アイラ・ヘイズの確認には手間取った。というのは、兵員の消耗があまりに激しく連隊や大隊、小隊の構成メンバーが著しく入れ代ってしまったためだった。しかも、アイラは、帰国を避けていたために、名乗り出なかったうえに、ギャグノンには口止めをしていた。
アイラは、戦場でともに苦悩し苦痛を味わってきた仲間から離脱して1人だけ帰国することに、強いうしろめたさを感じていたのだった。
さらに状況を混乱させたのは、山頂に旗を掲げた場面の写真が2通りあったために、どちらの場合のメンバーかについて上官たちにあいだに困惑・混乱があった。
すったもんだのあげく、ギャグノンとブラッドリー、ヘイズが帰国して財務省に召喚された。
しかし、3人は財務省担当者によるキャンペインの説明を聞いて、腰が引けてしまった。
というのも、政府が打ち出すイメイジは、
@硫黄島はもはや完全にアメリカ軍の制圧下に置かれた
Aアメリカ軍の優勢は決定的になり、勝利(完全占領)まであとひと押しだ
B3人は、愛国心に燃え、危険もかえりみずに登頂を敢行した英雄だ
というものだったからだ。
どれも、今まで硫黄島の激戦地にいた兵士としての感覚からして、少しも事実を伝えていないからだ。