ただし、ブリテン本土攻撃はドイツの最後の攻撃手段であって、やるなら空軍の総力を結集してあたらなければきわめて危険な作戦になるだろうという忠告を、ヒトラーはドイツ帝国海軍( Reichskriegsmarine )総司令官(レーダー提督)から受けていた。
というのは、海洋を隔てたブリテンは、ドイツの海軍をはるかに凌駕するその海洋権力を保持し、それによって本国を防衛しているからだ。ブリテンの航空戦力それ自体が侮れない威力を持っているうえに、王国海軍は、本国防衛艦隊だけで50隻以上の駆逐艦、20隻以上の巡洋艦、8隻の戦艦を擁しているのだ。
すでにドイツ艦隊は、バルト海、北海、大西洋で王国艦隊によって手ひどい打撃を被っていた。その恐ろしさを身をもって知っている海軍提督の助言だった。
ところが、空軍 LW の指導者は、能天気なぐらいに自己過信した手合いばかりだったから、ヒトラーは彼らの威勢のよい大言壮語(希望的観測)に乗って戦況の判断と攻撃手段を選んでしまったのだが・・・。
しかも、電撃戦の成功で戦線はヨーロッパ全域に拡大したため、ドイツはその航空戦力を伸び切った戦線の主要な要衝すべてに配備しなければならなくなっていた。その兵站=補給体系の構築と維持のための負担は恐ろしいほどになっていた。
とにかくヒトラーの構想ではブリテン攻撃はいくつかの段階局面からなっていて、まず最初はブリテンから大陸に向けて出動する航空機や艦船を攻撃破壊することにしていた。次いで、ドーヴァー海峡での制空権を握り、ドーヴァーや北海を航行する船舶や飛行機を破壊する、しかも、その攻撃範囲をしだいに拡大して、ブリテン本島に近づけていく。
それでもブリテンが停戦に応じなければ、本島の爆撃に突入する。本土爆撃にさいしては、まずエアフィールドやレーダー設備基地を破壊し、最後にはロンドンへの空襲とブリテン島の工場地帯の爆撃にいたるという計画だった。
しかし、そこには敵側の必死の防戦によって生じる空軍の物質的および人的損耗を修復しながら、どうやって航空戦力の維持するかという計画は含まれていなかった。
ブリテンは軍事技術、つまり機械・兵器工学、電子工学、電磁技術に関しては突出した開発能力を持つ――すでに保有する特許はドイツの追随を許さない。そればかりか、世界貿易の巨大なネットワーク――必要な資源を世界中からかき集めてくる力――を組織化して運営しているのだった。ドイツ艦隊による通商破壊戦略はあまり功を奏していなかった。
石油や非鉄金属、繊維、木材など、軍需物資の補給は、ドイツがおよぶところではまったくなかった。
たしかに、1939年末の時点では、航空戦力の比較では、ブリテンの2000機弱に対して、ドイツ4000強だった。見かけ上は、ドイツの戦力はブリテンの2倍以上だった。そう、量的な比較では。
「ブリテンの戦い」の期間についてはいくつもの説があるという。
ブリテンの歴史家や空軍の公式記録では、1940年7月10日から10月31日までという。ドイツでの主流説は、1940年8月半ばから翌41年5月末までだという。
ブリテン主流派の見方では、ドイツ軍が海峡での昼間の持続的かつ大規模な爆撃活動の開始をもって、この戦闘局面の起点としている。これに対して、ドイツ主流派の見方では、海峡を超えてブリテン島本土への爆撃活動を開始したときから、優劣の帰趨(ブリテンの制空権の回復=掌握、つまりはドイツの制空権の全面的喪失)の決着がほぼついた時期までの局面だと位置づけている。
戦況( phase )の段階的推移については、だいたい見解の一致を見ている。というのは、それぞれの空軍の攻防の様相については、事実関係が記録上明確だから。それによると、次のような推移になる。
@1940年7月10日〜8月11日 :海峡での戦い( the Chennel Battles / Kanalkampf )
北フランスないしネーデルラントの海岸線からドーヴァー海岸まで海上の制空権をドイツが掌握していく局面
A8月12日〜23日 :ブリテン沿岸部への攻撃( the Eagle Attack / Adlerangriff )
ブリテン南部の沿岸部の飛行場への散発的な攻撃・破壊の局面
B8月24日〜9月6日 :飛行場と軍事施設への執拗で断続的な攻撃の局面
ブリテン本土の施設や拠点の攻撃を開始したが、まだ都市や普通の生産設備への攻撃は始まっていない(過渡的な局面)
C9月7日以降 :ブリテン本土攻撃の局面
ブリテン本土への攻撃・爆撃は本格化して、「爆撃機編隊+護衛戦闘機編隊」による攻撃にエスカレイトした局面