捜査資料の内容を読んだフォイルは、こっそり自宅を抜け出してロンドンまで旅行した。そして、フォイルが政府の戦争政策を非難したことになっている場所、あの地下退避壕を訪れ、その近辺で「事件」の関係者に事情聴取して回った。
その結果、あの夜、地下退避壕で繰り言のような独白をしていたのは、コリン・ファウラーという男だったことが判明した。そして、独白の内容も告発書類にあるようなものではなく、悲惨な経験をした者が発した悲観でしかなかったことがわかった。
フォイルはコリン・ファウラーの住居を訪ねて、ファウラーの悲惨な経験を聞き出した。その体験とは……
数週間前、ファウラーはロンドン市の命令で、妻や息子とともにウェストハム学校に避難した。ところが、数日後、その学校が爆撃を受けて妻と息子が死んでしまった。
ところが、その少し前から、地上の公的な施設への退避の命令は誤りであることが判明し、居住区に戻って爆撃に際しては地下退避壕に避難するという方針になっていたのだ。
ファウラーが調べてみると、ウェストハム学校への避難は爆撃の2日前に解除され、ファウラー一家は居住区に戻るはずだったことがわかった。ところが、ロンドン市政庁の担当行政官(代議員も兼務)が惑乱してその変更の行政命令を決定し伝達するのを忘れていた。そのため、学校に避難していた住民200人が2日後の爆撃で命を失ったのだ。
ところで、そのとき当局は、大きさ数メートル灰銀色の小さな飛行船を建物の上空に上げておけばドイツ空軍の空爆を回避できるとして、それを空爆対策として奨励していた。だが、それは単なる迷信で、何の役にも立たなかった。飛行船を掲げていたウェストハム学校は空爆され、廃墟になってしまった。
つまり、行政官のいわば懈怠によって、避難先の変更がおこなわれず、戦死したというわけだ。その担当官こそ、ほかならぬフランク・ヴォードリーだった。
戦争のなかでの混乱という背景があったことから、ヴォードリーは行政上の責任を追及されることもなく引退し、結構な額の退職年金を受け取ることができた。その金で、ロンドンから離れたゲストハウスで安閑な生活を送っていたのだ。
一方、爆撃で家族を失ったコリン・ファウラーはひどい抑鬱状態を経て鬱病になってしまった。爆撃の夜の地下壕での繰り言は、混濁した意識のなかでの独言だった。そのなかには、もちろんロンドン政庁とその行政における過誤によって家族を失ったことに対する悲憤が込められている。けれども、政府の戦争政策や戦時体制への避難を込めた扇動ではなかった。
こうした事情をつかんだフォイルは、スコットランドヤードに乗り込み、調べた事実を示しながらローズ警視監にかけ合った。
警視庁内の何者かがコリン・ファウラーとクリストファー・フォイルの2つの氏名が同じイニシャルであることを利用して、意図的にフォイルに罪をかぶせたのだ。