世紀末――あるいは世紀の変わり目: turn of the century ――のヴィーン。
19世紀半ばまで、ドイツ(テュウトン諸族)の政治的・国家的統一をめぐる主導権争いをプロイセン王国とのあいだで演じて敗れたオーストリア。
ホーエンツォレルン王家との地域覇権争いで敗北したハプスブルク王家は、ドイチュラントの政治的・軍事的統合からはじき飛ばされた――つまり分裂したままの――辺境、中南欧やバルカン半島の小さな諸王国や諸侯国ハンガリアを名目的にまとめて、どうにか「継ぎはぎの帝国」を形づくった。
「オーストリア」とはラテン語で「南の王国」という意味( ausutro とは南という意味)で、多分に「南の辺境」という揶揄が込められている。ドイツ語でも「東の王国
Östreich 」で東部辺境という意味合いが込められている。
その時代、ドイチュラント(ドイツすなわちテュウトン語諸族の地域)といえば、現在のドイツだけでなく、バルト海――エストニアやリトゥアニアなどを含む――、東欧(ポーランド、チェコ、ウクライナなど)、ボヘミア、バルカン北部までを覆う版図を意味していた。
そのうち、プロイセン王国は、バルト海沿いに現在のフィンランド国境付近からブランデンブルク地方、ザクセン地方までを占めていたから、この王国がドイツ地域の統合を進めるとなると、オーストリアとの軍事的闘争の結果手に入れた中欧・東欧の北半分をそっくり支配するということになった。
で、プロイセンの「力づくの統合」が物を言うことになった。
その「ドイツ帝国」もじつは、内部に深刻な分断と分裂を抱え込んでいた。しかし、見かけ上はプロイセンの覇権が表向き金ぴかに輝いていた――地域覇権をめぐるオーストリアとの戦争で連戦連勝だったことから。
これに対するオーストリアはと言うと、イタリアをめぐる戦線ではフランスに敗れ、中欧・東欧をめぐる戦線ではプロイセンに敗れ、勢力圏は切り縮められて、いわゆる「ヨーロッパ」から駆逐され、目に余るほどに政治的紛糾と混乱が続く南ヨーロッパに勢力圏を広げるしかなかった。
それでも、この地域で最優位を占めていた――けれども目を覆うばかりの分裂と内紛を抱え込んだ――ハンガリア王国と王室を連合して、オーストリア=ハンガリア並立王国(二重帝国:
Doppelreich )を形成した。
つまりは、19世紀末のヴィーンといえば、「政治的分裂」を抱え込んだ「辺境」と直結した世界都市ということになる。
フランスとドイツは、域内の分立的傾向を力づくで抑え込んで「国民国家」としての統合=凝集――中央集権化――に血道をあげている最中だったが、オーストリア王家はもはや域内の力づくの統合を半ばあきらめていたかに見える。大陸ヨーロッパのほかの諸国に比べて強権支配が表に出てこない、そんな空気が漂う優雅な大都市であったとか。
だから、「世紀末ヴィーン」では芸術や文芸、文化の前衛的ないし先駆的な実験がさまざまに試みられていたらしい。
「力づくの抑え込み」への諦念と政治的無力感が相半ばして漂う帝都ヴィーンには、域外やヨーロッパ各地の強圧から逃れ出てきたさまざまな潮流の文化や芸術が流れ込んできて、独特の文化と芸術の試行錯誤と爛熟、そして「退廃」を生み出したのだろう。
かくして、一方で王室の権威は後退し財政の逼迫と危機が進行しながら、他方にまばゆいばかりの文化や芸術の勃興・展開が出現することになった。
とはいえ、オーストリアの「強権性の弱さ」とは、「当時のヨーロッパの水準からみれば」という比較であって、現在の私たちから見れば、王家や王族の傲岸ぶりや政治の専制度合いや横柄さは「ファシズム」並みに見えるだろう。何しろ閉鎖的な「身分制秩序」にどっぷりとらわれているレジームなのだ。
言ってみれば、身分の壁やレジームには閉塞感をかこちていた富裕市民層は、正統派の文化や芸術を堪能しながらも半ば飽食して――帝政に嫌気しながら、かといって変革の道は閉ざされ、仕方なく――珍奇性や新奇性さらには倒錯性に富んだ文化や芸術を求め、この傾向に中下級貴族層や下層民衆(庶民)もまたなびくといった状況だった。
要するに、不安や不満は「噴出孔」を求めていたのだ。
その都市に現れたのが、天才的なイリュージョニスト、アイゼンハイム。彼自身は「タネや仕かけがある」魔術・奇術だと言い切るが、しかし観衆の誰もがアイゼンハイムが超自然の能力を操るのではないかと信じるほどだった。観衆の多くはアイゼンハイムを崇拝していた。分裂と諦念と退廃はカリスマを求めるようだ。
ヴィーンには大衆社会( mass-crowd society )が出現していたのだ。