私たちの歴史に関する視点や方法もまた、ある意味でイリュージョン――ヴィジョン:幻影――だ。どれほど科学性、客観性を標榜しようとも。
というのも、どのような方法・立場であれ、私たちの歴史認識は現実の歴史過程の膨大な事実や要素のなかから、特定の少数の事実や要素を抽出してきて、それらのあいだの結びつき――因果関係や「必然性」「蓋然性」――を分析するしかないからだ。
つまり、私たち人間の観念のなかの構築物としての歴史あるいは歴史観は、現実の歴史過程――人類社会の時系列的な変化過程というべきか――そのものではなく、そのなかからそれぞれの価値観や方法論によるフィルターをつうじて主観的に選択した材料で、しかも物語の特有の構成手法としての「必然性なるもの」にもとづいて組み立てるしかないからだ。
その意味では、はじめに事柄=事実があるのではなく、むしろ、生まれてから社会のなかで育ってきた過程――たとえば公教育制度――で身につけた視座や価値観に沿って、私たちは歴史を眺めることになるからだ。
私たちの精神・意識は、社会的=イデオロギー的な存在拘束を受けていて、社会を自分なりに理解しようとする年頃には、すでに既成観念や固定観念、先入観などからでき上がったフィルターを通してしか、歴史や外界を眺められないからだ。
その傾向は、とりわけ人文社会科学系、歴史学系のアカデミズムに著しい。というよりも、マルクスが言うように、社会科学や歴史学はそれぞれの立場によるイデオロギーのあいだの闘争なのだ。
そうなることの理由=原因が、マルクスが説明するようなものではないにしても、論理化された思想・観念のあいだの争いであることは間違いない。
なかでも、明治以降にヨーロッパやアメリカから学問を輸入して近代化を推進した日本のアカデミズムには、欧米の学説や方法を「額面通りに」受け取ってしまう、それゆえ、阿呆のような「欧米崇拝」の――というよりも権威づけの基準を欧米の学説におきたがる――傾向が強かったようだ。
私の経験で一番ひどいと思ったのは、「市民革命」とか「市民社会」に関する理論史だ。もっとも、この頃では最近の実証史的研究による批判を受けてかなり修正されてきているが。
市民革命が中世ないし「封建制」から近代ないし「資本主義」への転換期(転換過程)であるという幻想が、左右の陣営を問わず、40年ほど前には支配的立場として堂々とまかり通っていた。
私がこのサイトのいくつかの記事で説明したように、中世の再生産構造から資本主義的生産様式への転換は、1000年前から始まっていたし、市民革命期に権力の争奪戦を繰り広げたのは、本質的に同じ諸階級(貴族と商業資本)のなかの2つの対立的グループだった。
したがって、革命の前後で統治構造=レジームは変わったが、社会の基本構造は変わらずに持続し、徐々に変容が進んでいった。
ところが、革命後に権力を掌握した分派は、自らが支配するようになった新たな段階(秩序)こそ、これまでの人類史のなかで最高に発展した社会状況であると宣言し、過去の歴史をそこに必然的にいたるべき低位の諸段階として位置づけ、序列づけ、価値づけたのだった。
すなわち発展史観、進歩史観だ。近代を最高の発展段階と見なす「思い上がり史観」だ。