それゆえ、ドゥゴール政権は、やや事大主義的で時代遅れの植民地政策を採り続けて対外政策では失敗続きでした。フランス国家の威信の誇示というスタイルが抜け切れないのです。
ヴェトナムの独立に反対してインドシナに軍を派遣して、独立運動を封じ込めようとして泥沼に陥って結局撤退を余儀なくされ、次いでアルジェリアの独立闘争にも軍を送って抑圧しました。
けれども、それはフランス国家の深刻な財政危機を招き、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ諸地域の住民たち(うまく立ち回れば「アメリカの帝国主義」への対抗者としてフランスを応援するはず)の支持や好意を失ってしまいました。
国内の世論は二分され、深刻な対立と政治闘争、謀略と駆け引きが展開されました。
結局、国家財政の破綻と国際的威信の没落を受けて、ドゥゴールはアルジェリアの独立を承認し、軍の撤退を命令しました。ここでは、国家の威信や見栄えよりも現実の国家の統治を優先するリアリストとしての側面が前に出ました。
しかし、軍の一部=強硬派と政界の右翼は、ドゥゴールの決定は「自由フランス」に対する「恥知らずの裏切りだ」と決めつけ、激しく抵抗しました。
軍隊は2つに割れました。もちろん軍政を担うエリートはドゥゴール政権の周囲に結集していました。ところが、戦場に派遣され、汚れ役を担い続けてきた連中はこれに反発しました。
アルジェ派遣軍の一部将兵はこの都市に立てこもり、正規フランス軍に抗戦し、しかもアルジェリア民族解放戦線からも攻撃され、壊滅しました。
その残党は投降を拒否して亡命し、あるいはフランスにひそかに舞い戻り、裏切り者ドゥゴールの暗殺を執拗に追求しました。
こうなると、もはや狂信者の妄執でしかありません。
しかし、暗殺計画はずさんでした。しかもまた、フランスの諜報機関や警護組織も面子をかけて捜査追及、警戒をしたので、軍反乱派の行動はことごとく失敗に終わりました。
頑固一徹のドゥゴールじいさんもまたツキに恵まれていました。
そのせいか、ドゥゴールは自分の強運を信じたのか、暗殺の危険から身を隠す姿勢を断固拒否しました。
そのため登庁の道筋や時間は従来どおりに厳守させ、予定通りの行事への頻繁な参列、演説もやめませんでした。指導者は死を恐れてはならない、脅威には正面から立ち向かうべし、ということです。
見栄っ張りの大統領を戴いた国家の情報組織、官憲のメンバーは頭を抱えていました。