そもそも、ドゥゴールはフランスがナチスから解放されるタイミングをねらってパリに乗り込み、ど派手なパフォーマンスを見せつけて自らの権威を固めたハッタリ屋でした。
パリ解放にさいして巧妙な立ち回りを演じて、ナチス=ヒトラーの権力からフランスとヨーロッパを解放する戦いの指導者にして象徴的な人物として登場する場を演出し、復活した共和国の「最初の大統領の地位」を獲得したのですた。
たしかに冷静沈着で腹のすわった指導者でした。しかし、実際には、普段は前線の後方で威張っている「立ち回りのうまい軍人」にすぎませんでした。
しかし、大向こうを唸らせるような舞台には必ず押しかける天才的な勘と運とを持ち合わせていたのです。
フランスにとどまって闘い続けたレジスタンスの有力指導者や共和派の将官、政治家たちは、次々に斃され、あるいは作戦の失敗の責任を問われて失脚しました。結局、ドゥゴールのライヴァルたちは、ナチスを追い出した後の政権の指導者のリストから消えていきました。
ところが、状況判断に敏いオパチュニスト、ドゥゴールはうまくドーヴァーの向こうに脱出し、ブリテンで抵抗・解放組織のリーダーにおさまります。
そして、「自由フランス放送」キャンペインを立ち上げ、「安全な場所から」解放闘争を指導する立場を獲得し、いつのまにやら共和派の指導者に成り上がっていました。
そのうえ、終戦後には共和派の右派から共産党まで、民主主義フランス共和国の樹立という目標で統合し、懐柔する術を知っていました。
そして、まんまと大統領の座に収まると、右翼から左翼にまでおよぶ支持基盤を背景に思い切った改革を断行し、フランス国家の威光の高揚をめざしたのです。
とくに軍部に強く支持された政権運営をおこないました。
それは、世界で圧倒的なヘゲモニーを獲得したアメリカ合州国に堂々と対抗して、フランスの軍事的独立を維持しようとする姿勢を見栄えよく示すことに成功したからです。
しかも、合衆国との対立は、冷戦構造のもとでソ連の強い影響下にあるフランス共産党の妥協を引き出す手段ともなりました
つまりは、NATOに参加してもフランス軍の指揮系統は独立させてアメリカの介入を排除しました。そして、フランス軍の軍備を強化し、独自の兵器開発、とりわけ自力による核兵器の開発など、強硬な軍事政策によって、軍部の権力や威信を拡大したわけです。
しかし、核実験場となったサハラ砂漠や南太平洋のサンゴ礁は半永久的な核汚染で生態系が破壊されたままです。
一方、核兵器を含む独自の軍事力を背景に、アメリカが指導する冷戦戦略には独自のスタンスを保ちました。
西ヨーロッパの国家としてはソ連・東欧とのあいだで独自の外交関係を築き、フランス国家を緊張緩和や国際平和における独特の緩衝帯として機能させるという芸当を見事に演じました。
そして、ブリテンをヨーロッパにおける「アメリカのトロイの木馬」だと批判して、NATOではことごとく対立しました。
そして、ヨーロッパ経済共同体EEC(戦後、6か国で発足したヨーロッパの関税同盟で、EUの前身のそのまた前身)へのブリテンの加盟に対して2度も拒否権(veto)を行使しました。アメリカ嫌い、フランス万歳!。