欧米の映画やテレヴィの刑事・警察ドラマ作品と同じように、日本の刑事・警察ドラマも何らかの形で社会状況を映し出す鏡だ。この社会状況には、警察組織内部の組織の仕組み動きも含まれる。
とはいえ、日本の刑事・警察ドラマにおける社会や犯罪、警察組織と人間関係の写し取り方や物語の描き方には、日本独自の個性があるようだ。警察による犯罪捜査の物語の描き方には、欧米諸国それぞれに国民的個性があって、それなりに異なっているというべきかもしれない。
とはいえ、犯罪の性質や構造、そして警察組織のあり方には、欧米諸国や日本に共通の要素も多い。
犯罪捜査や警察をめぐる映像物語は、欧米でも日本でもすぐれた小説フィクションの映像化として始まり発展してきた。というのも、映像物語はすなわち映像劇であって、すべからく脚本をもとにしている限り、まずは文章によって登場人物の言動や筋立ての起承転結、背景描写が構想されるからだ。小説家が放送作家となったり、その逆は日常茶飯の事態だ。
電気製品あるいは文化としてのテレヴィジョンが一般家庭に普及して、映画や舞台劇とは別の劇ジャンルとしてのテレヴィ・ドラマ番組の需要が高まって、テレヴィ放映専門の映像物語が大量に制作されるようになってからも、文章による脚本が物語制作を先導するという事情は変わらない。
そうなると、刑事・警察ドラマのつくり方、描き方の変化や発展は、脚本や小説、調査報道などの文章作家の視点あるいは問題意識の変化や発展の結果だともいえる。とはいえ、文章と映像とでは、事件や捜査の過程、人物の描き方は異なっているし、映画やテレヴィなどの視覚映像文化の発達は文章による物語の描き方を変えてきたのも確かだ。
こうして映像または文章で描かれた刑事・警察の物語は、それが娯楽目的ではあっても、制作陣が視聴者・観衆に向けて提示したメッセイジを含んでいる。つまり社会状況についての問題提起や警告、批判を含んでいるのだ。
ともあれ、刑事・警察ドラマは犯罪やその捜査をめぐる警察の動きを通して――そういう切り口、断面で――社会状況を写すのだ。では、何が切り取られ描き出されているのか。
そこで、まず手始めとして『踊る大捜査線』『ハンチョウ』という2つのシリーズについて、それらの物語が何をどのように描こうとしているのか、あれこれ考えてみよう。
■刑事・警察にはまる■
私は小説や映画、テレヴィドラマとして「犯罪捜査もの」が大好きだ。
ただし、日本のテレヴィドラマ作品については、6〜7年ほど前まではあまり見てこなかった。20歳頃から40歳頃までテレヴィをあまり観なかったせいでもある。ただし映画はめちゃくちゃたくさん観てきた。休日に映画を「はしご」して1日で6本観たこともある。
ところが、今は過去のテレヴィ・プログラムの大半がDVDになってきたので、日本の刑事・警察ドラマ作品群を集中的に観ることができるようになった。
じつは私は、少年時代(1960年代)にNHKの『事件記者』とかTBSの『七人の刑事』が好きだった。やはり地道な犯罪捜査とか事件の追跡、犯罪の背景や動機の解明の過程=物語を追いかけるのが好みだった。子どもなりに、拳銃の撃ち合いとか追いかけっこあるいは格闘シーンよりも、捜査と推理の流れを知るのが好みだった。
小説では、10歳頃からコナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』シリーズとかエドガー・アラン・ポーの作品とか、エラリー・クイーンの作品(少年向け訳)にはまっていた。一方で、日本の江戸期の「捕り物帖ドラマ」も好きだった。スリラーやサスペンスものに子ども時代からはまっていたのだ。
ところでDVDについては、欧米の刑事警察ドラマをだいたい渉猟してしまったので、最近では日本の刑事警察ものを観るようになっている。観始めると「はまるタイプ」なので、主なものでは『踊る大捜査線』シリーズの全部、『ハンチョウ』シリーズのほとんどを観て、『相棒』シリーズのシーズン12まで観終えたところだ。物語数にして200作以上になるだろうか。
そうなると、頭のなかに――かなりいい加減で索莫としたものだが――刑事・警察もの「デイタベイス」が形成され、海外作品群と比較しながら、日本の刑事警察ドラマについて、テーマ設定や犯罪・社会状況の観方とか、警察組織の描き方の傾向を分析、検討したくなってくる。
というのも、欧米でも日本でも、刑事・警察ドラマは、社会状況や世相について、なかなかに「すぐれた映し鏡」になっているからだ。その時代(社会状況)に特有の犯罪を描くことが多いのだ。犯罪と捜査の描き方について、欧米や日本に共通の方法やセンスもあれば、それぞれの国民的個性が現れる方法や視点もある。
刑事・警察ものは、映像物語のつくり方=描き方、その背景にある社会状況に対する視点を比較分析するうえで、なかなかに興味深い対象なのである。
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