警察組織と犯罪捜査について『踊る大捜査線』が描き方には、明確なパターンがある。
『踊る大捜査線』が描くテーマは、ドラマの題名に「大捜査線」がついてるのだから、もとより中心は犯罪捜査なのだが、シリーズすべての物語に共通するサブテーマとして「警察組織」「捜査組織」への批判的視点が含まれている。はっきり言うと、シリーズ全体としては日本の刑事警察組織の官僚主義化と縦割り体制への批判ないし揶揄がメインテーマで、犯罪捜査の過程それ自体にはあまり重点が置かれていないような気さえする。
ドラマの主要な舞台は、警視庁の東京湾岸警察署とその所轄区域。もちろん架空の所轄署だ。そこで発生する犯罪事件とその捜査をめぐる警察の組織と動きが描かれる。
バブル経済の頃から一躍「ベイエリア」とか「ウォーターフロント」とかいう耳触りのよさそうなカテゴリーで脚光を浴びてきた東京湾岸が、ドラマの中心舞台と設定されているわけだ。まさに日本の首都、東京都のなかでも時代の最先端を走っている突出した地帯で、その舞台設定の意図するところは、社会状況も犯罪もこれまた日本の最先端を走る都市環境を背景に置きたいということからではないだろうか。
というわけで、場所と舞台は日本の首都の最先端地帯なのだが、そこで秩序の維持とか犯罪捜査などにあたる警察組織の内部構造や運営体制は、「前例重視」「キャリア階級制支配」「キャリア官僚優位」「現場後回し」で縦割り型の日本型行政の旧弊な体質にどっぷり浸かっている。
このような行政組織としての「制度的疲労」に絡みつかれている警察組織の体質、ことに警視庁指導部つまりキャリア幹部――これには警察庁指導部もときおり絡む――の自己満足的でエリート臭ぷんぷんの発想・行動スタイルと、湾岸署で現場の捜査にあたる刑事たちの地道な捜査とが「あてつけ」のように明白に対比されている。
その描き方はカリカチュアライズyされ誇張され、茶番劇じみてさえいる。たとえば、湾岸署に捜査本部が立ち上げられるとすると、所長以下の幹部は、警視庁本庁の幹部――刑事課長、管理官など――に対する「接待」を手厚くすることで、高い評価を得ようとする。部下である所轄の刑事たちの犯罪捜査に関する指導は後回しというよりも、ない。
署の幹部たちの関心は、ひたすら本庁のキャリアたちを「よいしょ」することに向けられている。そこには、捜査の主導権は全面的に本庁側にあって、所轄の人員はその下働き、補助者にすぎないのだから、という警察内の階級格差に卑屈なまでに追従する姿があるだけだ。
警察庁と警視庁の指導部すなわち警察エリートは、かつての「高等文官」以来の「国家公務員上級」のキャリア資格をもつ上級官僚からなる。国民国家の行政装置をリードするという気概と傲慢さを備えた集団だ。
してみれば、この物語は、警察組織におけるエリート官僚の権力志向・上昇志向や思想としての官僚主義、そして彼らの権威と優越を支える厳然とした階級格差の制度を批判し、揶揄する趣が強いということだ。それがこのシリーズのメッセイジだともいえる。
私としては「さもありなん」とは思うものの、エリート・キャリア官僚の思考パターンや行動スタイルを具体的に知っているわけではないし、身近に経験したこともない。
それにしても、この物語が描くように、エリート警察官僚たちの思考パターンや行動スタイルが――ほとんどのキャリア官僚の支配的傾向として――「金太郎飴」のようにワンパターンで鼻持ちならず、縦割り硬直的で権力志向、横柄さが強いとすれば、それは、ただ単に官僚個人の性格や資質の問題ではない。構造化された問題だ。日本の行政制度や行政装置の仕組みがもたらす構造的特質ということになる。
それは、警察組織を含む国家装置=行政組織の全体にかかわる構造的な傾向、「社会的病理」といえるだろう。
むしろ、組織自体がキャリアの階段を歩み始める若者たちを、そのように教育し彼らの心理や精神を画一的な鋳型のような行動様式、思考様式に流し込んでいくシステムこそが問題であって、このシステムのなかに、社会的病理としての官僚主義――キャリア階級意識――を育て上げる要因として組み込まれているということになるだろう。
私個人のイメイジでは、日本のエリート官僚はもっとずっとスマート(巧妙・狡猾)だと思う。