犯罪捜査は事実を探り出す認識活動であって、権力関係の作用の場ではない。犯罪をめぐる状況ををできる限り多様な角度、視点から情報を集めて分析することが大事なわけで、そんな場でこの尊大と卑屈、阿諛追従、「よいしょ」がおこなわれたら、どうなるか。
ドラマは、キャリア官僚の出世競争や足の引っ張り合い、彼らの思い上がった傲岸不遜で偏った判断、あるいは失敗を恐れる事なかれ主義などが、現場の捜査の足を引っ張り、混乱や紛糾を招く過程を滑稽に描き出す。われらが青島君たち所轄の刑事たちは、本庁幹部の傲岸不遜で一方的な態度に耐えながら、地道に捜査を進める。
もちろん、これは「娯楽ドラマ」「コメディ」である。あることないこと面白可笑しく演出する劇なのだ、と見ることも可能だろう。
しかし、人気を維持し、視聴率を獲得している事態をみると、この喜劇仕立てのドラマはシリアスな報道などでは描けない現実の「一端」を描いているのかもしれない。一般民衆・市民としての視聴者の刑事警察組織への目線や評価が高視聴率の土台となっている側面もあるかもしれない。
テレヴィ局の報道部門では、警察担当(サツ回り)記者は警察の実態を暴露すると、そのあとは情報提供を受けられないから、警察の内情を報道することはないだろう。そこで、そういうサツ回り記者の本音がフィクションのドラマづくりに活用されているのかもしれない。
ときどきマスメディアをにぎわす警察組織の「裏金」スキャンダルは、本来なら捜査活動に使われるべき財源がキャリア層の接待やら贈答に使われ、現場の捜査員たちが捜査費用の支弁に苦難している実情を暴露している。そういうスキャンダルは、警察組織の重い蓋の下に隠されてきた歪んだ現実がはからずも噴き出したものだ。
■日本の警察ドラマが描く警察組織の体質■
そんなわけで、日本の刑事警察ドラマでは、上級警察官僚は紋切り型のステレオタイプとして描かれる場合が多い。前例重視、出世競争での自意識過剰、現場の具体的捜査に関する無知、官僚どうしの駆け引き……。
一方で、現場の捜査員・刑事は個性的に描かれる。
それは、ドラマの上での演出なのだろうか。それとも、作家(小説家、脚本家、演出家など)による警察組織の観察・分析の結果として、そうなったのだろうか。たぶんそうなのだろう。
私見では、現実の警察組織の客観的傾向として、上級官僚の没個性化=ステレオタイプ化が著しいのだろうと思う。
というのも、キャリア・エリートの出世競争と評価システム(人事考課)のなかで、そのような思考様式や行動スタイルが大半の上級官僚に浸透していく傾向があるように思えるからだ。
それは、警察に限らず中央国家機関の文書として出てくる情報が、恐ろしく紋切り型で定型化されていることからも、判断できる。定式化・定型化、前例重視の判断=行動様式こそ、彼らの権限と権力の維持・強化の要件なのだから。