殺害された三井峯子もまた、つい先頃、日本橋小伝馬町のマンションに引っ越してきた「新参者」である。同じ日本橋には、離婚した元夫、清瀬直弘が経営するビル清掃会社がある。しかも、この街には、親に反発して家を出たきりの峯子と直弘の息子、弘毅が住んでいる。
偶然の連鎖の結果だ。このことは、捜査の進展につれて解明されていく。
さて、峯子の部屋の遺留品のなかに保険会社の営業マン、田倉慎一の名刺があったことから、最初に田倉に重要参考人としての嚆矢が突き立った。
加賀たちは、田倉のアリバイ供述の裏を探るうちに、田倉が何かを隠し嘘を言っていることが浮かび上がる。というのも、彼の言い分と同じ会社の女子事務員の言い分には相違があるからだ。
峯子が殺害された前後の時間、田倉は人形町の「あまから煎餅屋」に立ち寄っていたことから、煎餅屋の家族から事情聴取することになった。
煎餅屋の娘は、美容師としてヘアデザインのコンテストで優勝し、近くパリに研修留学することになった。ちゃきちゃきの下町っ子で、煎餅焼き職人の祖母としょっちゅう罵り合っている。だが、互いの言い分を聞くと、相手のことを大事にするあまり、言い合いになるらしいことがわかる。江戸っ子は言葉がきついので、私には怒鳴り合っているように見える。
ところで、加賀恭一郎は「甘いものグルメ」で、しかも行列に長い時間並ぶことを楽しみながら、行列ができる原因を突き止めることを無上の楽しみとしている。
事件起きた日にも、加賀は人形町の評判の「タイ焼き屋」に並んだが、自分の手前で売り切れになり、仕方なく別の店で「重盛の人形焼き(特製品)」の最後1ケイスを買おうとしたところ、横から手を出してきた田倉と鉢合わせして、すんでのところで先に買われてしまった。じつに「ひょんな出会い」だ。
その偶然の出会いが、生真面目な田倉の無実を証明するための証拠の1つを与えることになる。
で、結局のところ田倉の嘘は、煎餅屋の祖母が胆嚢癌であることを、研修留学目前の娘に知らせまいとする父親(祖母の息子)のはからいで田倉がひと肌脱いだことから生じたものであることが判明していく。口は悪いが、人一倍祖母思いの娘が、祖母の癌罹病を知ると留学を取りやめるだろうとの懸念からだった。
相手を互いに思いやっていても、いや思いやりがあるがゆえに、時としてすれ違いやわだかまりが生じる。小さな亀裂や疑念が起きる。
加賀は、そんな人びとの関係の亀裂やすれ違いによる疑念を修復していく役割を果たすことになる。というよりも、人情の機微から生じた「小さな嘘」の背景を探るうちに、人びとに和解・理解のきっかけをもたらしていくのだ。
そう、加賀恭一郎の役割は、猟犬のように真犯人を追いつめることよりも、事件の周囲で傷を負った心やこじれたりした人間言関係を修復していくことなのである。彼の捜査手法はそういうものらしい。