上に述べた伝統的な刑事警察の機能からすれば、刑事警察の役割は、司法と一体となって――市民社会の正常な進行のための監視活動によって――法の執行を担うことだ。言い換えれば法秩序の維持の役割を果たすことだ。
殺人や破壊、盗みなどの犯罪とは市民社会の秩序と平和の破壊であって、その実行者、首謀者などを追及・捜索して罪状を解明し、罪科の重さをめぐる司法判断に見合った期間・度合いにおいて、彼らを市民社会から排除し刑罰を科す――隔離のペナルティを与える――という、一連の司法過程(刑事訴訟)のある部分を担うことになる。
現代的なセンス・意味合いでいえば、
容疑者の追及・割り出しと拘束、取り調べ、つまり犯罪捜査は、犯罪の証拠を解明し、裁判で事実認定と可罰性(刑罰の程度)を判断するうえで必要な資料を探し出す活動である。
犯罪の証拠とは、秩序逸脱・破壊の程度の示す証拠、動機や意図を示す証拠、手段や方法――共謀や教唆含む――を示す証拠を意味する。
要するに「容疑者の追及」「証拠の確保」ということだ。
このような機能=役割は、全体としての市民社会の秩序・平和の維持が究極の目的であって、そのために個々の逸脱・破壊を可罰的な――刑罰ペナルティを課すべき――犯罪として捜査するということになる。逸脱者・破壊者の追及・拘束=排除が目的であって、そういう撹乱要因を除去することで市民社会の秩序・平和を維持することになるのだ。
したがって、個々の犯罪の被害者の救済や手当ては、さしあたりは目的や機能からはずされることになる。
というのも、近代市民社会のなかでの刑事司法は、中世から近代初期まで続いて、貴族などの武装特権を持つ人びとによる私的制裁・報復や私的闘争裁判(フェーデ)から切り離して、国家の公的な機能として犯罪捜査や刑罰を制度化する動きによって形成されてきたからだ。
犯罪者の追及捕縛と犯罪者への制裁=刑罰は、被害者個人や関係者がおこなうのではなく、市民社会の代表としての国家、国民ないし人民全体がおこなう制度という建前にする必要があった。
つまり、被害者が犯罪者や容疑者への私的な報復をおこなうことを阻止することが、近代刑事司法の眼目だったからだ。あくまで市民社会全体の秩序の維持や回復が眼目であった。
とはいえ、古典的な刑事司法制度の形成にさいしては、被害者の被害・損失の救済には目が向けられていなかった。慈善団体とか宗教団体や近隣組織などによる救済に期待したのかもしれないし、被害者の権利について配慮するという社会意識や政策の土壌がなかったからかもしれない。
もちろん、犯罪でもたらされた被害=損害を民事賠償によって金銭的に回復・救済するという手はあったが、その法理が確立されるのは、20世紀後半となってからだ。犯罪による被害の補償や個人の障害の修復は、経済的・金銭的な求償として民事訴訟における不法行為責任の追及によってなされるものと期待されることになった。
ところが、近年になって、ことに日本では、被害者の救済・補償ないしは被害者心理・感情の配慮・修復という側面に、刑事司法全般が関与すべきだという意見が広まってきた。
だが、難しいのは、被害者感情には「報復」とか「復讐」の要素がないとはいえないことだ。被害者の感情の「修復」というか「癒し」のなかには、加害者により重い刑罰が与えられることによってもたらされることも多い。
ただし、これまで警察は形の上では犯罪実行者に対する被害者や遺族などの怨恨や報復感情に訴えて、とにかく誰かを処罰したいという論理で幾多の冤罪を生み出してきたことに目を向けるべきだろう。それは間違った相手に被害者や遺族の怨恨を向けさせ、その間に真犯人が逃げおおせるという結果を招くのだから。
そのことが、きわめて安易な事情で犯罪に走る人びとに、国家(公的権力)は被害者や家族の心情に配慮して「重い刑罰を与えるぞ」という威嚇・威圧を与えるとすれば、それはそれで、犯罪抑止の効果を持つことになる。
というわけで、問題は底なしに難しい。
◆カウンセリングとしての刑事捜査◆
ところが、加賀恭一郎は課題を提起する。すなわち、犯罪によって傷つけられた公共性ないし社会生活の回復という課題のなかに、犯人の追及だけでなく、捜査員による聴き取りによるコミュニケイションでカウンセラー的役割を担うことで、被害者も含めた関係者(市民)の《心情、人間関係への配慮、手当て⇒修復・癒し》をもたらしていくのだ、と。
このドラマの場合には、最終的には容疑者の絞り込み、追及につながるのだが、さしあたっては、関係者が抱える事情を見つけ出して、手当てするということになる。
とはいえ、それが刑事警察の機能に含めるべきかどうかは、私にはわからない。
場合によっては警察による執拗な聴取が、関係者を傷つけることだってあるだろうし。みんながみんな加賀のように穏やかに癒すように聞き出すスキルやセンスを持つわけではないから。
ただ、犯罪によって毀損ないし破壊された市民社会の秩序というもののなかに、被害者や関係者の心理とか人間関係などを含めるべきだとは思う。
加賀の言葉は、刑事司法の課題への重いメッセイジであることは間違いない。