それでも、当時のヨーロッパではどの王国も政治的凝集性はきわめて低く、煮崩れ寸前の豆腐みたいなものでした。だから、名目上の図体=版図が大きなエスパーニャの優位は抜きん出ていました。
あまりに強引な実力闘争と持久戦を仕かけないかぎり、エスパーニャの「はりぼての権威」は大いに物を言ったのです。
というのも、カスティーリャ王権は軍事力によってイベリアを再征服したからです。つまり、王国内の軍事的な統合というか結集力は、ほかのヨーロッパ王権に比べて、格段に強固だったわけです。
もっともそれは、王の権力の強さというよりも、宮廷の周囲に結集した有力諸侯の軍事力と彼らの連合(貴族連合)の強さだったのですが。
なにしろ、名目上は全エスパーニャを支配するカスティーリャ王は、カスティーリャ域内の有力貴族の権限や領地にすらほとんど口出しができなかったくらいなのです。
むしろ、有力貴族が力づくで王の直轄領の都市や農村に好き勝手に介入したり、王の宮廷で権力争いを繰り広げていました。
こうした有力貴族の横暴を抑えて王室の権威を高めるために、王は都市の自衛組織(エルマンダード:兄弟団)と協力して治安組織や行財政組織を新たにつくり出そうとしました。
のちには、コレヒドールという王の直属の代官=軍政官を派遣して、有力都市を王権の統制に組み入れようとしました。
しかし、有力貴族の権威を抑え込んでの集権化には挫折したのです。
他方、エスパーニャのほかの地方、アラゴン=カタルーニャはといえば、連合王国を組んでいるはずのアラゴン王国とカタルーニャ侯国は、それぞれ従来からの独立の王国評議会や軍、財政装置を別個に動かし続けています。
カタルーニャでは、宮廷がエスパーニャ語とは別の地元の言語を公用語としました(やがてカタルーニャ語となる)。
また、アンダルシーアも似たようなものでした。かつてはイスラムの太守が統治するグラナーダ侯国領アル・アンダールスでしたが、キリスト教君主が征服したのちも、カスティーリャ王室に対して高度な自立性を保ち続けました。
まして、カスティーリャの中央宮廷から要求された税負担には、これらの地方はそっぽを向いていました。エスパーニャ王の軍への兵員の派遣の要請をも、平然と拒んでいたのです。
&spnb;要するに、エスパーニャの中央宮廷(カスティーリャ王家)の力はその程度の緩いものでした。
そのうえ、カール王が育ったブラバントやフランドル、ネーデルラントの在地貴族や都市は、集権化や課税を強めようとする王権に公然と反旗をひるがえして、独立闘争を始めました。
というのは、エスパーニャ王権がこれらの地方で課税を強化し、そのために在地の貴族や都市富裕商人の権限や既得権益を切り縮めようとしたからです。
税の増徴の理由は、エスパーニャ王室の財政危機でした。
エスパーニャ王権は15世紀末からずっと、イタリアやフランスの周辺でフランス王権との戦争を続けてきましたが、16世紀半ばには戦乱がいっそう激しくなって、莫大な戦費が必要になったからです。
アメリカ大陸の征服と収奪・植民地化によって、エスパーニャ域内には膨大な財宝や高価な産物が流入したのに、王の金庫の中身はとぼしかったのです。
入ってくるはずの貴金属や特産物を担保にして、王室はネーデルラントや北イタリアの富裕商人から返済期間の短い高利の借り入れをおこなって、やっと王室財政をやりくりしていたのです。
借り入れた資金は、宮廷での奢侈や贅沢、豪華な宮殿・邸宅の建設、そして戦争に注ぎ込まれました。
こうして何とか持ちこたえていた財政状態は、ヨーロッパで最も豊かで超税収入の大きいネーデルラントの反乱で、なおのこと苦しくなってしまいました。
ネーデルラントでは、エスパーニャ王による統制と収奪で住民が生活苦に陥り不満が高まったこともあって、プロテスタント(カルヴァン派)が勢力を拡大していて、反乱勢力が勢いづいていました。
反乱した地方では、純然たる宗教というよりも政治的イデオロギーとしてプロテスタンティズム(カルヴァン派)を選び掲げたともいえます。こうして、政治的・軍事的闘争は、宗教戦争という形態をまとうことなりました。