とはいえ、この時代の「王国」や「帝国」をその名目・看板どおりに評価してはいけません。
中世晩期から近代初頭にかけては、王国や帝国は、いや公国や伯領にしたところで、依然として、君侯・領主のあいだの「属人主義的」な連合ないし臣従関係でしかなかったのです。
ひとつにまとまった領土をもつ国家、つまり恒常的な「属地的(領土的)結合」にもとづく政治体では、さらさらありません。
属人主義的連合・臣従関係というのは、それぞれの地方の領主や身分団体がより上位の王や君侯に、いわば「パースナルな臣従」を誓約するだけのものにすぎません。
その臣従は、その地方伝来の固有の法(統治秩序や既存の権益)をそのまま承認することを条件にしていたのです。つまり、上位の君主は、臣従誓約をした家臣が統治する土地と住民に対しては支配権をもたないわけです。
領土や住民全体が、ひとまとまりになってある王に服従するという仕組みではないのです。住民の上に立つ領主があくまでパースナルに上位の君主に服属するだけなのです。
そもそも「領土」ないし「国境」とか「国民nation」という観念がどこにもないのですから。国家に「恒常的な法人格」をもたせるなどという法思想上の「離れ業」が考え出されるのは、まだまだずっと先のことです。
その地方の固有の法が侵害されれば、それを理由に臣従を拒否して反乱を起こす権利があるものとされていました。
あれこれの地方が領土的に結合して「国家」をつくりあげるというのではないのです。
国家形成は、恐ろしいほど貧弱な統治装置(断片)を備えたにすぎない王権でしかなく、このような幼弱・未熟な形で始まったばかりです。その結果、近代国家に行き着く前に崩壊・解体してしまう王国や帝国がほとんどだったのです。
それゆえ、支配圏域全体にいきわたる行政装置や統治システムなんかはあろうはずもないのです。
それぞれの地方、地域ごとに独立した政治組織、軍、徴税装置が、各地方ごとの固有の法にもとづいてそれぞれ自立的に運営されているだけでした。
圏域の内部では政治的・行財政的制度のな統合というものは、めったにありません。そもそも、恒常的な行政機関・官僚組織がほとんどない状態から、ようやくつくられ始めた局面だったのです。
「国の首都」「首府」というものがなく、多くの王たちは、少数の直属の家臣(有力諸侯)を引き連れて、名目的な支配地や直轄領をあちらからこちらへと巡り歩いていました。王は王国の各地に拠点となる宮殿や城砦をもっていました。
王たちは、各地を巡回しながら裁判集会や諸身分団体の評議会をとりおこなったのです。それが遠征であり、王の権威の伝達の行事だった。巡行する王とその帷幕の上級貴族の集まりが、すなわち「宮廷」でした。
王が回りきれない地方には、直属ないし腹心の家臣団を代官として遣わして「巡回裁判」「巡回評議会」をおこなわせました。
王は自分の権威になびかない地方領主を威圧するために、直属の家臣団を引き連れて巡行=遠征をおこない、それでもいうことを聞かなければ軍を派遣しました。
各地の領主・地方貴族の王への臣従関係はパースナルなものですから、王が代替わりしたり、地方領主の顔ぶれが変わったり、身分団体の力関係が変化すれば、あらためて巡行したり、軍を派遣したりして臣従関係を結び直さなければ、王国や帝国はまたたくまに解体してしまうことになりました。
高校や大学の世界史では、王が死ねば、あっというまに有力な王国が空中分解してしまうという不可思議なできごとに、「なぜ、どうしてだろう」首をひねる人は多かったと思います。
私たち現代人は、近代国家イデオロギー(国家の恒常的な法人格というフィクションに)すっかりマインドコントロールされているので、そういう共同主観がなかった時代の状況を理解できないのです。
要するに、王国や帝国は、有力者のあいだのパースナルな慣習(強固な思い込み)によって成り立っていただけだからです。そういう慣習を崩す事態が生じれば、王国や帝国は、その瞬間に消えてしまうのです。
こういう歴史の内実を学ばずに、ヘッドラインと人物名、年号だけ覚える歴史教育だと、結局、なんにも理解できないのです。
さて話を戻すと、
16〜17世紀のハプスブルク帝国(それにフランス王国)は、それぞれの勝手な言い分を言い立てがちな地方の寄せ集め、つまり、できそこないの継ぎはぎの「フランケンシュタインの怪物」だったのです。
ただ1つの例外は、ちっぽけなイングランド王国でした。ブリテン島の南半分を統治していたにすぎない小さな王国でしたが。