こうして、14世紀末には、レオン=カスティーリャ王権、アラゴン=カタルーニャ王権、ナバーラ王権(フランク王国の宮廷ではナヴァール公として叙任)がイベリアの有力君侯として生き残っていました。
とりわけアラゴン=カタルーニャ王権は、バルセローナの有力な遠距離商人層と結びついて地中海西部に進出し、サルデーニャやシチリア方面にまで勢力を拡張していきました。
イベリアの南西の端には、ポルトゥガル王権ができました。
15世紀末には、カスティーリャ女王イサベラとアラゴン王フェルナンドが結婚して合同王権(同君連合)をつくり、さらにナバーラをも併合して、エスパーニャ王国(帝国)が形成されました。
当時のヨーロッパでは、西フランク王国はとうのむかしに解体していたので、空前絶後の広大な支配地を擁する巨大な王国(帝国)が出現したことになります。
その頃、ヨーロッパに西の端に位置するポルトガル王権とエスパーニャ王権は、在地の富裕商人や北イタリア商人の財政支援を受けながら、大西洋、北西アフリカ方面に向かう航路を開拓し始めていました。
そして、大西洋航路の果てに、アメリカ大陸を「発見」し、探検と征服・植民活動を進めていきます。エスパーニャとポルトゥガルは広大な海外領土を獲得します。
それからおよそ20年後、イサベルとフェルナンドの孫でブルゴーニュ公のカール(カルロス)がエスパーニャ王位を継ぎます。
カールは、イサベルとフェルナンドの娘ファナがオーストリア大公ハプスブルク家の御曹司と結婚して生んだ息子でした。母親の精神障害のため、カールの王位継承は変則的な戴冠となりました。
こうして、カールはエスパーニャ王位のほかに、オーストリア大公、ブルゴーニュ公、フランドル伯、シチリア=ナポリ王、サルデーニャ王などの地位を継承し、さらに神聖ローマ皇帝の位まで手に入れました。
もっとも、神聖ローマ皇帝は、ほとんど名目だけの地位にすぎなかったのですが、ドイツの最有力君主(ドイツ王)の肩書をともなっていて、金ぴかに輝いていました。
そんなわけで、なんと、ハプスブルク王朝はイベリア半島から始まって、フランドル、ネーデルラント、ブルゴーニュ、イタリア、シチリア、サルデーニャ、マジョルカ・・・と、ぐるりとフランスを取り囲む広大な諸地域にまたがる君主として君臨することになったのです。
しかも、アメリカ大陸にはこれまた広大な植民地帝国を築きつつありました。そして、自分の都合(エスパーニャやハプスブルク家の利害)に合わせてローマ教皇庁や修道院組織(主にイエズス会)の権威を利用し、振り回すことができたのです。
ついこの前まで、パリ周辺を支配する貧弱な地方領主にすぎないフランス王家から見れば、恐ろしいほど強大な敵に周りを取り囲まれているということになってしまいました。
対岸のイングランド王も、大陸の主要部とアメリカ大陸を支配するハプスブルク王権=帝国の力を恐れました。
この2王国に加えて、エスパーニャと独立戦争を戦うネーデルラント、そして中欧に割拠する多数の幼弱な君侯・領主たちがあたふた集まって、歩調も不ぞろいな反エスパーニャ(反ハプスブルク)連合を結成することになりました。