91年版ゴジラに話を戻す。
かくして、パウワーアップしたゴジラとサイボーグ化したキングギドラは、東京で対決することになった。場所は新都庁舎ビル群が聳える西新宿。物語でゴジラが巨大化しなければならなかった理由は、あの高層ビル群を見れば一目瞭然だ。ゴジラを大写しにすると、体高が50ないし80メートルでは、ビルの全貌が描けなくなる。
ただそれだけのことなのだが、ゴジラなどの怪獣による建築物の破壊には、映画制作陣は並々ならぬエネルギーを注いできた。私の考えでは、これには大きな意味がある。
それは、ミニチュア模型を本物そっくりに見えるように精密精巧につくるという課題だけでなく、建築物の破壊それ自体に重要な意味づけがされているかに見える。
84年版ゴジラ映画から、ゴジラは、日本の話題を呼んだ最新の高層ビルを破壊するようになった。84年版映画では、有楽町マリオンや西新宿の高層ビル群。89年版では、大阪府の淀川沿いの高層ビル群。そして、91年版では、新都庁舎とその周囲の高層ビル群。
こうして、いってみれば、日本の主要な巨大建築物は、ゴジラ映画で破壊されてはじめて社会的・文化的に認知されるようになった。映画では破壊されるけれども、そのことで世の中での認知度の広さが確認され、あるいは映画によって認知度が拡大するのだ。つまりは、洗礼、通過儀礼ともいえる。
ところが、80年代後半からのバブル経済で、日本のあちこちの大都市(政令指定都市)にこれ見よがしの高層ビルが(雨後の筍のように)出現した。そこで、91年版では、天空を翔けるキングギドラが九州から本州を経て北海道までを忙しく破壊して回る羽目になった。この見方は穿ちすぎか。
私は、それらの場面によって、日本各地の大都市の高層化の状況をおおまかに知ることができた。
ところで、91年版では小さな瑕疵があった。
天を衝く2つの塔を備えた都庁舎と道路を挟んでその北隣に聳えるビルとを「宙空で結ぶ通路」(空中回廊)が歪んでいるのだ。プロダクションノウトによると、「本番前」にこの部分を壊してしまった、あるいは破壊の様子が気に入らなくて撮り直しをしたらしい。急いで組み立て直したが、映画館の大スクリーンでは、これによる歪みが明白だった。
とはいえ、あれだけの精密なビルの模型をつくったこと、そして壊してつくり直したことは、恐ろしいほどに大変な作業・苦労だったと思う。
ゴジラ映画で毎回登場する、都市の街並みのパノラマ、そしてクローズアップ用の模型、これらを設計し、無数の小さな部品をつくり、組み立て色彩塗布し、修正するのは、気の遠くなるような遠大な作業だ。しかも、それらの一番の出来栄えのものは、壊されるのだ。
であれば、これらの大傑作の破壊には、大きな意味を付与するしかないはずだ。
日本の都市景観の変貌を描き、怪獣の破壊によってカリカチュアライズして、目に見える歴史として採録=認知しているのではないか。これも、独特のウィット&プロットだ。
ところで、話を怪獣映画が描く日本の軍事的安全保障環境という話題に戻そう。
いましがた破壊されるビルやビル群が日本の諸都市の高層建築や都市景観の歴史標識となっていると書いたが、それは日本の軍備や軍事的環境の歴史的変遷の記録ともなっていると言い換えてもいいだろう。
空想によるフィクシャスな兵器は別として、その時々で主流または主要な(新鋭の)自衛隊の軍備や兵器の様子が描かれているからだ。
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