以上に、このサイトで取り上げることになる映画作品について、物語とか状況設定などとの関連において、使われた音楽の意味や役割、特徴をかいつまんで見てきた。通常の世の中の映画音楽の取り扱いとは、相当に異なった視角・方法において考察してきた。
物語の社会史的考察の一環として、音楽を分析するためだ。
というよりも、従来の音楽評論とか、映画音楽評論では、たいていの場合、そもそも歴史論的な視点が抜け落ちているし、そういう視点をあえて持ち込むような無鉄砲なことは試みられなかったから、まあ、当然の経過だったのだが。
ところが、映画の物語や人物・背景・状況設定などに社会史的視点を持ち込むと、映像の背景音として使われている楽曲について、いくつも新たな論点が見えてくる。なぜ、映画制作陣は、あの楽曲をあの場面に、あるいはテーマに、エンディングに持ってきたのか。そういう制作側の意図や発想が見えてくる。そして、音楽そのものが含みこんでいる意味が見えてくる。
ここでの考察では、こうした問題=論点を分析するためにはまだまだ不十分である。ここでは、こういう見方の試論として、音楽の門外漢が試みただけのことだ。
考察の総括としてここで言えることは、
映画や演劇、オペラは劇物語(ドラマ)や歴史を描く芸術の1分野だが、美術や音楽などと組み合わされた総合芸術である。であるがゆえに、物語や歴史を描く芸術の別の1領域である音楽とある意味で共通の課題や方法論をもつことになる。いや、課題や方法が相互浸透し合っているというべきか。
ヨーロッパの音楽(音学)は、もともと、神学を土台とするメタフィジークや学芸の1分野として生まれ、成長した。ムージクムは、古来、神の意志が宿された宇宙=世界の摂理(調和の法則や仕組み)を読み取る学芸だった。
だから、中世まで宗教制度、つまりはローマ教会とともに成長し、その役割は神学の侍女として、人びとに「神の偉大さ=宇宙の摂理」とか敬虔な意識や観念を呼び起こすための手段となってきた。
ところが、ルネサンスや都市商業権力の発展、次いで各地の君侯権力、王権の成長とともに、構造転換を経験していった。音楽は、社会の権力構造と結びついて成長し変化したのだ。やがて都市商人が台頭すると、市民的娯楽(エンターテインメント)となった。
してみれば、音楽は、まずは神を讃える物語――というよりも型にはまった権威――を描き、人びとに伝える技芸として成長し、やがて有力貴族や王権の権威を飾る装置となり、次いで都市の商業権力の装飾装置となり、さらに都市の富裕層や専門職層の娯楽や教養となり、しだいに享受・参加の裾野を下の階層に拡大していった。
音楽は天上の権威を探る技芸から地上の権力を飾る装置となり、そこに人や世の中の運命や物語を表現する芸術となった。
これは、出版文化としての歴史や文学という芸術分野にも、演劇、オペラにも言える傾向性である。
そして、映画は芸術や教養の大衆化の時代に出現した。大衆による消費・享受によって、投下資本を回収し利潤を獲得する資本家的営利事業=産業として生まれた。
それゆえ、音声を映像=フィルムに統合するテクノロジーの開発とともに、それまでの劇性や物語、歴史を描き表現する技芸(音楽)と密接に結びつくのはいわば必然的だった。音楽の手法と技術を応用して、観衆に劇物語をより効果的に伝えるようになった、と。
ところが音楽は、それ自体のうちに物語を――抽象化し圧縮した形で――描き語り伝える機能をもっているがゆえに、雰囲気を強調したり劇性を増幅するために、映像の展開過程とオーヴァーラップまたはシンクロナイズさせることができる装置ないしは誘導装置となったのだ。