ランボルギーニの環境基準検査の手続きが滞っているため、チャーリーはイライラしていた。焦燥感を抱えたまま、恋人スザンナとパームスプリングズへの旅行に出かけることになった。楽しいはずの旅行が重苦しいものになった。
ビズネス上のストレスと焦燥を抱えたチャーリーは、スザンナと会話しようともしない。スザンナとしては、たとえ重く苦しい悩みであろうとも、心を開いて打ち明けてほしかった。人生のパートナーをめざしているのだから、苦しみも喜びも分かち合いたいというわけだ。
だが、ビズネス(金儲け)での成功をひたすら夢見るチャーリーは、彼女に対していつも優位にあって、(強い男としての)優越を保ちたいという潜在欲求があるのか、こういうときには話しかけない。悩みを打ち明けることは、自分の優位を掘り崩しかねないと感じるのか。
というわけで、気まずい時間が流れていく。
そのとき、父親の顧問弁護士からセルラー――自動車電話:携帯電話の原型で80年代には大金持ちしか持てなかった――に電話が入った。
「君の父親、サンフォード・バビット氏が死亡した。明朝、埋葬の儀が予定されている。そして、サンフォード氏の遺言状を確認するので、立ち会ってほしい」というものだった。
チャーリーは車の向きを反転させた。父親の住居は、オハイオ州シンシナティ市――イリノイ州シカゴから南東におよそ450キロメートル――にある。西海岸からは、北東に何千キロメートルも離れている。チャーリーはスザンナとともに空港へ向かった。
とはいえ、チャーリーは墓地での埋葬式には参列しなかった。何十メートルも離れた場所から、冷ややかな目で眺めていただけだった。というのも、彼は16歳(高校生)のときに父親さんフォードと深い仲違いをして、家を飛び出してから、一度も会っていなかったからだ。とうに絆を断ち切ったつもりだった。
それでも、父親の家に戻ったのは、遺言による遺産相続の見込みがあったからだろう。父親はちょっとした資産家だったのだ。
だが、サンフォードの遺言は、チャーリーにとって悲惨この上ないものだった。
父の資産のほとんど、300万ドル(当時の物価で6億円くらいか)は匿名の受益者のための基金に信託された。チャーリーには、ビュイック・ロードマスター・コンヴァーティブル(ソフトトップで、オープンカーになるビュイック:1949年製)1台と枯れ藪に近いバラ数株が遺贈されただけだった。
300百万ドルは誰のところに行くんだ。匿名の受益者とは誰なんだ。
チャーリーは頭に来たが、受益者の名を伏せておくことも、遺言の指定事項だった。弁護士は名前を秘匿した。
ところが、二十歳代半ばにしては、金銭をめぐる駆け引きにかけては数多くの経験を積んでいるチャーリー、父親の取引銀行に出かけていって、サンフォードの実の息子としての立場を振りかざして、信託基金の利益金の送金先を聞き出してしまった。