レイモンドは関心が向かいないことや、会話を望まないこと(答えたくないこと)には、《 I don't know. 》(わからない/さあ、知らない:つまり、どうでもいいや)という返答をする。そして、行動はきちんとしている。端正だ。
たとえば、道は「真っ直ぐに歩くもの」と決めている。だから、斜めに横断して近道するということもしない。直角に曲がるのだ。
そんなレイモンドにとって、施設の外の世界はまるきり「はじめての世界」だった。だが、ときどき混乱や惑乱はするが、ひどい情緒障害を起こすことはなかった。その意味では、普通の「自閉症」ではなく、外部環境に対する学習・適応能力は備えているといえる。
さて、3人は市内のホテルに宿泊した。
チャーリーは、レイモンドがいつもの居室=環境と違うと言って不安がると、スザンナに指図したりして、大雑把な対応をした。たとえば、「ぼくのベッドは窓のそばだよ」という不満には、「スザンナ、ベッドを窓際に動かせ」という具合。また、「本がない。ぼくの本棚がない」という不安には、電話帳を渡して「ほら、これを読みなよ。分量はたっぷりだ」。
でも、レイモンドは、分厚い電話帳を片端から読み始めてすべて記憶していった。何千という氏名、住所、電話番号を、電話帳の記載順に。ただし、本が面白いとか、興味があるという関心・好みとか、何の本だとかいう状況的な文脈の判断があって、読書するわけではない。コンピュータのように機械的に記憶していくようだ。
ところが、スザンナは真夜中になってからチャーリーに対する憤りを爆発させてホテルを出ていってしまった。チャーリーが遺産争いで有利に立ち回るために、レイモンドを利用しようとしていることを見透かしたからだ。
「自閉症」で療護や保護が必要なレイモンドに、ひどくぞんざいで、冷たく、横柄で自分勝手な対応をするからだ。
さて、翌日、チャーリーは航空便でロスに帰ろうと空港に行った。そして、あのランボルギーニ4台の検査手続きがどうなっているかを知るために、レイモンドを待たせて、従業員のレニーに電話した。状況は悲惨だった。
車の排気環境基準の追加検査の結果は絶望的だった。こうして販売許可が遅れている一方で、チャーリーに融資した高利貸しからは厳しい返済の要求が出されていた。チャーリーは、状況に対処するために急いでロスに帰らなければならなかった。
ところが、航空券を買おうとすると、レイモンドが嫌がり始めた。そして、1985年から88年までの大規模な航空機事故の情報――新聞やレヴィで報道された航空会社や死亡者数――をに口走り始めた。きわめて正確な数字だった。つまり、レイモンドは航空機はきわめて危険な交通手段であるという堅い確信を抱いているのだ。
事件の確立や死者数から、レイモンドなりに航空輸送システムの危険性を分析しているわけだ。
チャーリーは、アトランティックがだめならデルタの便にする、それがだめならノースウェスト…と提案していったが、レイモンドはどの航空会社の路線便についても重大事故の情報を記憶していて、危険だと答える。数字を出しての意見だから、なだめようがない。
そして、唯一「OK」を出したのはクァンタス(オーストラリア航空)だった。
「ばかな、わざわざメルボルンまで行ってからロス行きで戻ることができるか」とチャーリーは腹を立てて、強引に券購入と搭乗手続きをしようとした。だが、レイモンドはパニックに陥って大声で叫び始めた。
こうして、航空便を諦めた。
しかたなく、ビュイックでハイウェイに乗り入れることにした。だが、ほんの数十メートル走ったところで、レイモンドは今度は、高速道路での過去2、3年間の事故情報(道路名と死傷者数)を口走り始めた。そして、無理やり車を降りて、歩き出してしまった。
チャーリーは仕方なく、レイモンドの傍らをノロノロと運転して、高速道路の出口に向かった。一般道路に降りたところで、ようやくレイモンドは車に戻った。
チャーリーは道々、公衆電話でレニーに状況を尋ねたが、状況は悪くなっていく一方だった。ついにチャーリーは癇癪を破裂させた。だが、レイモンドはマイペイスで落ち着いたものである。
夕方、安いモーテルに泊まることにした。というのも、チャーリーは手許所持金が底を突いていたからだ。300万ドルの信託遺産の所有者=レイモンドといっしょの旅にもかかわらず、ひどく惨めなものになった。