ある日、マサコが航空会社に電話する――それはマサコの日課になっていた――と、カバンが見つかったという。ようやくカバンを取り戻すことができた。
      手元に届いたカバンを開けてみると、なかにはたくさんのキノコが詰まっていた。先頃、森林遊歩のときに取ったのだがなくしてしまったキノコと同じキノコがカバンに詰まっていたのだ。
      「カバンが戻ったのですが、私のものと少し違うようなのですが…」とマサコは航空会社に連絡してみた。けれども結局、受け入れたのではなかろうか。
      というのも、カバンに詰まっていたキノコは、マサコが森のなかに置き忘れたものなのだから。
    
      キノコは寓意だと思われる。
      中世から近代初期にかけてのヨーロッパ絵画には、しばしば絵のなかに寓意を表すシンボルが描かれている。たとえば聖女マリアを単独で描いた絵にはユリの花が描かれる。貞淑とか処女性を意味する図象 icon だからだ。
      これは《映像のイコノロギー( Ikonologie / iconology 図象学)》なのだ。象徴的なモノに寓意が込められているのだ。
    
      ともあれ、マサコはかもめ食堂に寄って、カバンを取り戻したことを告げた。カバンが戻れば、マサコは旅を続けるのか、日本に帰るのかを選ぶことになるのだろう。それで、ミドリとサチエは話し合った。
      「カバンも見つかったし、マサコさんは日本に帰るのですかね」
      「どうするにせよ、それはマサコさん自身が決めることですから、その決心を喜んであげましょう」 
      サチエはマサコがいなくなる寂しさを口にしなかった。
      「私が日本に帰ると決めたら、サチエさんは寂しいですか」
      「ミドリさん自身が決めることですから、私は喜んで見送りますよ」
      「なんだ、寂しがってほしかったのに。私がいなくなっても寂しくないんですね」
      「いや、そりゃあ寂しいですよ」
      などという会話をしていた。
      なかなかに、面白い会話だ。出会いや別れを淡々と受け入れるサチエ。それが自然の流れであって、本人の意思を尊重するということだ。
      そういえば、ミドリがサチエの家に居候して間もなくの頃の会話に、こういうものがあった。
      文脈としては、サチエが日本食堂を開こうと決心したことをめぐる会話なのだが。
    サチエ:「あした世界が滅びるとしたら、今日は何をします?」
    ミドリ:(少し考えてから)「美味しいものを食べようと思います」
    サチエ:「でしょう。私もそうするわ。
      食材をたくさん買い込んで、うんと美味しいものをつくって、仲のいい友だちを呼んで、みんなで食べるの」
    ミドリ:「えーと、その仲間に私も入れてもらえるんですか?
      ぜひ呼んでください」 という具合だ。
    
      何やらずれているようで、なかなかに核心を突いた会話ではないか!
      サチエにとってこの世で一番大切なことは、美味しいものをつくること、そして仲間の一緒に食べることなのだ。
    
      さてマサコは、旅行カバンを取り戻したこととて、これからの身の振り方というか行動計画を考えようと、港に来て海を眺めていた。すると、ここでいつも出会う中年男性――たぶんいつも散策中――がやって来て、彼が大事そうに抱えていた猫をマサコに手渡した。
      何も言わなかったが「世話をしてくれ。あなたなら、信頼できる」という態度だった。
      マサコは猫を預かることにした。この街で。
      翌朝、マサコは間も目食堂に来た。
      「昨日、海岸で男性から猫を預かったのです。だから、当分ここにいることにしました。
      だから、これからもここで働かせていただきます。よろしく」
    と挨拶した。
      事態の転回の鍵は、今度は猫だった。アイコンが無生物から生き物になったことの意味は、これからも長く続く事情を意味するのではなかろうか。