とういわけで、かもめ食堂はこれからも日本人女性3人が営むことになった。
来客数はそれから増え続け、ついに満席になる日がやって来た。ヘルシンキの人びとが《おにぎり》を美味しそうに食べるようになった。フィンランド人の食の好みが日本人に近いのだろうか。それとも、私が考えるように、おにぎりは世界に誇るレシピということだろうか。
トンミも相変わらず毎日のように訪れて無料のカフェを楽しんでいる。そして、3人連れの老婦人たちも知り合いを連れて来店するようになって、食べ物とおしゃべりを心いくまで楽しでいる。
サチエは来客で満席になる日が到来したことを自分自身で祝うようにプールに出かけた。
すると、プールのなかで周囲にいた人びとが――何と、みんななじみの客になっている――祝ってくれた。これは、心象風景の描写だろう。
最後のシーンも3人の不思議な会話だ。
ミドリ:「ねえ、知ってました?!
マサコさんの『いらっしゃいませ』って、丁寧すぎるんですよ」
サチエ:「あら、そう?」
マサコ:「そんなことはありませんよ。ごく普通ですよ」
ミドリ:「じゃあ、試しにやってみてくださいよ」
マサコ:「いらっしゃいませ」(ミドリの言うとおり、相当に丁寧な言い方だ)
ミドリ:「ほら、すごく丁寧でしょう」
サチエ:「でも、マサコさんらしくて、いいんじゃないかしら」
マサコ:「ミドリさんの『いらっしゃい』は、そっけないわね」
彼女の
ミドリ:(試しに言ってみる)「いらっしゃい」
マサコ:「ほらね」
ミドリ:「サチエさんの『いらっしゃい』は、すごくいいんですよ。言ってみてくださいよ」
マサコ:「言ってみてください」
サチエ:「いいですよ」(と言ってなかなか言わない)
ところが、そこにお客がやって来る。
サチエ:「いらっしゃい!」
ミドリとマサコの中間あたりの、ちょうどいい丁寧さで、たしかにほどよいかもしれない。
ところで、「ねえ知ってました……」という台詞は、ミドリの会話の切り出し方の「決まり文句」だ。この物語では何度も登場する。彼女の日頃の観察の成果を提示し、問題提起をする、というよりも会話を切りだすのだ。
場面の展開の端緒と位置づけられているようでもある。これも台詞のイコノロジーかもしれない。