物語の本編に話を進めよう。
若い女性、イーヴィ・ハモンドは、BTN――ブリティッシュ・テレヴィジョン・ネットワーク――で働いている。このテレヴィ局は、BBCが完全に国有化され、その結果、ノースファイアーによって全面的に私物化されてできた放送局だ。
ある深夜、うっかりして11時以降に外出してしまった。そのために深夜の街中で夜警隊フィンガーマン(暴力団というべきか)に追跡され捕えられてしまった。彼らは、この若い女性を逮捕しようというのではない。暴行虐待して殺そうとしているのだ。
イーヴィが彼らの魔手に落ちようとしたそのとき、暗闇から全身黒ずくめの男が現れた。ガイ・フォークスと呼ばれるクラウンの仮面をかぶり、幅広の縁にとんがりトップの黒い帽子、黒いマント。マントの内側には何本もの短剣。
仮面の男は、短剣を巧みに操って、またたくまに警察官たちを倒した。
危ういところを助けられたイーヴィは、仮面の男に名を尋ねた。
男は「Vと呼んでくれ」と答えたうえで、自分の呼称Vにまつわる事情や自分の立場について長々と回りくどい説明をした。要するに、現今のノースファイアーによる独裁の専横を批判する内容だったが、あまりに大げさな表現なので、「あなたは気が変なの?」と質問してしまった。
同じ道化師・道化役でもクラウン clown とピエロ pierrot は違うという。クラウンは、権力者のそばにはべって田舎者など侮蔑や嘲笑の対象となる道化師。これに対して、ピエロは、顔に厚く白いドーランを塗って、パントマイムやサーカスなどの舞台でうつけ者を演じる道化師だとか。
今では日本だけでなく、世界中で両者の区別が曖昧になっているらしい。英語ではもともとクラウンは時代遅れの武骨者や田舎者という意味で、やがて芝居などで王のそばにはべる道化役としての地位を得たようだ。王のそばのクラウン( a clown by the crown )と覚えればいいかもしれない。
だが、Vは、気を悪くするでもなく、このあと安全に家まで送るけれども、少しいっしょに寄り道してほしいと頼んだ。音楽会=コンサートに付き合ってくれというのだ。
ところが、Vがイーヴィを連れていったところは、コンサートホールではなく、ロンドンの中心部の建物屋上だった。
目の前にはロンドン中央刑事裁判所のベイリー――中世に王座裁判所を起源とする王直属代官による高等裁判所がやがて中央刑事法廷となった――の塔が見える。塔の頂部には「マダム(レイディ)・ジャスティス」――法と正義の女神像で、目隠しをしながら右手に剣、左手には正義の秤を持つ――の像がそびえている。
けれども、そこには楽器もないし音楽家もいない。
「演奏会? でも何もないじゃない」とイーヴィは問うた。
「いや、ほら聞こえてこないかい。荘厳で美しい音楽が…」とVは答えて、腕を振って指揮し始めた。「まずは最初に金管…、そして弦…の響きが」
Vの優雅な動きに見とれたイーヴィは「あら、本当に音楽が響いてくるようだわ」と感動。
すると、町中に設置されているスピーカーから、チャイコフスキーの「序曲《1812年》」の雄大な旋律が響き渡った。この曲では、クライマックスで大砲の音をあらわす重厚な打楽器が爆発的に打ち鳴らされるが、演奏会によってはタイミングを合わせて本物の大砲(空砲)を撃つことがある。
外出禁止令のために家のなかに閉じこもっていた人びとは、戸外で高らかになり響くオーヴァーチュアに惹かれて扉を開けて、外に出てきた。
街頭のスピーカーは、普段は独裁政権の宣伝や警告を市民たちに押しつける威圧的なイデオロギー装置なのだが、今は壮大で美しい音楽を流すスピーカーに変わっていた。
ロンドン中に響き渡る序曲のなかで、Vはイーヴィに話しかけた。
「あの正義の婦人像は、今ではまるきり役に立っていない。政権の暴虐が人びとを押し潰す仕組みを覆い隠すだけだ。あんなものは、壊れてなくなってしまえばいい!
今すてきな花火ショウをお目にかけよう」
すると、オールドベイリー(中央刑事裁判所の塔)に仕かけられた爆薬と花火が炸裂した。マダム・ジャスティス像は吹き飛び、塔は炎をあげて崩れ去っていった。
ところで、「序曲1812年」が描くイメイジは、ヨーロッパ全土の皇帝となったナポレオンが権力の絶頂から凋落・没落していく転換点となった兆候である。
ヨーロッパ大陸全域を征服したナポレオンが、1812年、大陸体制(対ブリテン貿易封鎖)の命令に従わないロシアを征服・支配しようとして、自ら大軍を率いて攻め込んだ。だが、ロシアの大平原と厳冬の寒波、そしてゲリラ戦を挑むロシアの民衆と一部貴族の抵抗によって惨めな敗北を喫し、野望が粉々に打ち砕かれてしまうことになった。この軍事的大敗が、ナポレオンの権力の没落の引き金になった。
おそらくVは、今強大な権力をふるっているノースファイアー政権も、民衆の反発や抵抗に合って没落していくであろう、と宣言したかったのだろう。
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