第2章 商業資本=都市の成長と支配秩序
第1節 地中海貿易圏でのヴェネツィアの興隆
この節の目次
13世紀前半には、ヴェネツィアは本領とイストリア、ダルマティア沿海部に加えて、コルフ島、エーゲ海諸島、クレタ島を属領として統治することになった。クレタではヴェネツィア政庁は、その市民である貴族や下級騎士たちに領地を与え、領地からの収入の見返りとして彼らに城塞建設と防衛の任務を課した。
これらの海外領土の統治のために、政庁は通常任期2年の総督 doge を派遣するとともに、海外領土の統治者たちを本領政庁の各種の評議会に参加させた。
クレタに派遣されたドージェは全島を6つの行政管区に分け、貴族や騎士などの所領保有者を大評議会に召集して、政策の決定と運営に責任を与えた。彼らは、本領での統治に関する政治的権利をもつと同時に強制公債への出資などの義務も負っていた〔cf. Mcneill〕。
こうしてヴェネツィアは、貿易航路の多数の拠点を支配することによって、広範囲の通商ネットワークを組織していった。そして、それまで地中海貿易から切り離されていた黒海方面にも経路が開かれた。
ドーナウやドゥニエストルが流れる肥沃な黒海の北西部と東北部は、大量の穀物の余剰を輸出する能力をもっていた――トラキアからクリミアにいたる地帯はローマ帝国の支配地だったのでローマニア Romania と呼ばれていた。13世紀初頭からヴェネツィア商人は黒海方面に出向いて、クリミア半島のソルダイアを拠点として交易をおこなった〔cf. Mcneill〕。ところが黒海方面では、すでにジェーノヴァ商人が通商拠点を築いていて優勢だったから、すさまじい競争が展開されることになった。
闘争はレヴァント方面でも展開され、そこではヴェネツィアが優位を得た。 だが、13世紀後半は、中央アジアでのモンゴル人勢力が膨張して独自の帝国レジームを組織したことから、香辛料などの奢侈品などをめぐるインドや中国など東アジアからの主要交易路が北に移動した時期だった〔cf. Mcneill〕。
モンゴル人は中央アジア全体に荷馬車の宿駅制度を整備し、商人の旅行の安全を保証した。カラコルムから中央アジアを横断してアラル海とカスピ海の北側を経て黒海北岸にいたる通商路、そしてこの通商路とサマルカンドを経てカスピ海の北方で出会うインダス下流域からの経路が開拓された。
そのため、中国やインドから胡椒や香料、絹をもち込む隊商の最も主要な目的地は、シリア方面から黒海の南東部のトレビゾンドへ移動した。多様な商品の集積地となった黒海沿岸(カッファ、スダーク、トレビゾンド)には、地元産の穀物や塩、魚のほか、ロシアやカフカーズの毛皮、蜜蝋、奴隷などがやって来た。
そのため、ユーラシア貿易の中継地としてのレヴァントの地位は相対的に後退することになった。
ジェーノヴァ人は黒海沿岸のカッファやターナに居留地を置き、この地を起点としてインドや東アジアにいたる「隊商の道」やロシア平原の交易路から来る商品のヨーロッパへのもち込み経路を支配した。
だが、ジェーノヴァ商人たちは、同じ政治体=都市国家の出身者として、仲間意識をもって結束するよりも、個人や企業がそれぞれの個別利益を徹底的に追求していた。そのため、同胞の商人もまた競争相手で、利害・権益をめぐって同胞との激しい闘争をも辞さなかった。
ジェーノヴァ商人たちにがつくった植民地は独自の政治体をなしていて、政治共同体としてのジェーノヴァの最優位が保証されるようにコムーネによって管理されることはなかった。だから、黒海方面に足場を固めたジェーノヴァ人は、独立の地方政府を組織して、独自の利害を追求して譲らず、本国の都市商人や政庁と紛争を起こすこともあったという〔cf. Mcneill〕。
彼らは「同じ都市を基盤とする政治共同体」のメンバーであることよりも、単独の商人グループ(分派)としての利害をはるかに優先したようだ。
ヴェネツィアの商人貴族たちは強固な政治的凝集性を備え、政治共同体の統治秩序の安定を最優先したのに対して、ジェーノヴァの商人貴族たちはそれぞれ私的な富の蓄積と権力の拡大を最優先していた。ゆえにイタリア本領で強固な結束力をもつ支配階級を形成することも、域内の都市統治秩序の安定を配慮することもなかった。
13世紀末には、貿易の組織化とその軍事的防衛におけるジェーノヴァのヴェネツィアに対する優位が明らかだった。
しかも、コンスタンティノポリスのギリシア人王朝はヴェネツィアの貿易を妨害し、クレタでは反乱が勃発した。シリア、パレスティナ方面の奢侈品貿易は停滞し、十字軍諸侯国も衰退した。おりしも、1291年にはマムルーク朝エジプト王国がアッコンを攻略して、キリスト教勢力の最後の拠点が失われた。レヴァントの交易拠点も、スルタン軍の攻撃で一時的に失われてしまった。
通商システムの危機のなかでヴェネツィア本領では、1310年にティエポロの反乱が起き、統治体制の改革が不可避となった。ここでも権力集中が試みられたが、単独家系による権力独占(君主政)への道が封じられる方向で統治機構が再編された。
大評議会の定員が限定され、1310年には緊急措置として「10人委員会」が組織された。この委員会は共和国の統合と防衛を任務とする執行機関で、34年には常設機関となった。それは、それまで事案ごとに設置された多くの委員会や評議会のすべてと政庁の行財政を統括する組織になった。10人委員会に参加できる大評議会のメンバーは、少数の貴族家系に固定化され、こうして世襲の寡頭支配層が形成された。
この統治体制のもとで1310~20年代には、商船隊の編成と運営に対する政庁の規制と管理が強化された。
都市の権力集中の形態としては、ジェーノヴァでは、統治と貿易に関する諸機能を有力商人諸分派の競争の勝者に独占させる方向に変化したのに対して、ヴェネツィアでは、政治共同体の規制と介入を強化して、商人グループ間の蓄積競争を制限し、権力闘争を封じ込める方向に舵を切った。ヴェネツィアでは、商業利権は都市国家=コムーネをつうじて配分された。
収益性の高いガレー商船の指揮権は公開の競争入札で販売され、航海事業の細目について政府の委員会が規則を定め、期待される利益に見合った予算で航海を組織した。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
◆全体目次 章と節◆
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3節
西ヨーロッパの都市形成と領主制
第4節
バルト海貿易とハンザ都市同盟
第5節
商業経営の洗練と商人の都市支配
第6節
ドイツの政治的分裂と諸都市
第7節
世界貿易、世界都市と政治秩序の変動
補章-3
ヨーロッパの地政学的構造
――中世から近代初頭
補章-4
ヨーロッパ諸国民国家の形成史への視座
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成
第1節
ブリュージュの勃興と戦乱
第2節
アントウェルペンの繁栄と諸王権の対抗
第3節
ネーデルラントの商業資本と国家
――経済的・政治的凝集とヘゲモニー
第4章
イベリアの諸王朝と国家形成の挫折
第5章
イングランド国民国家の形成
第6章
フランスの王権と国家形成
第7章
スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
第8章
中間総括と展望