第2章 商業資本=都市の成長と支配秩序
第1節 地中海貿易圏でのヴェネツィアの興隆
この節の目次
ところが10世紀後半、ドイツ王オットーはイタリア遠征を繰り返してローマ皇帝の戴冠を受け、法観念上つまり名目上、イタリア中・北部はドイツ王が支配するローマ帝国に併合されることになった。1166年には、シュタウフェン家の皇帝フリードリヒ・バルバロッサ(赤髯)がイタリアにおける皇帝権力を強化するため、彼としては最初の遠征を企図した。
その後も、皇帝は、帝国とキリスト教世界の権威の象徴としてのローマ――当時はすっかり荒廃して鄙びた田舎町でしかなかった――を獲得して豊かなイタリアを支配するために、遠征を繰り返した。イタリア遠征は、多数の小さな領邦に分裂したゲルマニア=中央ヨーロッパでドイツ王さらにはローマ皇帝としての権威を振りかざすための儀式だったのだ。
さらに、彼の長子ハインリヒ6世はイタリア王位を得てシチリア王女と結婚したため、1194年にシチリア王位を相続した。
カローリング王朝のフランク帝国は、9世紀半ばに西フランク、中フランク、東フランクの3つに分割された。イタリア半島の中部以北は中フランクに帰属していたが、まもなく――カローリング王朝断絶とともに――イタリア王国となった。とはいえその後、イタリア中・北部は王位継承を主張する諸侯の分立割拠状態となった。
一方、東フランク=ゲルマニアに成立したローマ帝国の皇帝は、フランク帝国の継承者を自任し、その権威の維持・高揚のためにイタリア遠征を繰り返し、イタリア経営に努めた。なかでもバルバロッサ=フリードリッヒはイタリア征圧をもくろみ、、1154年にパーヴィアでイタリア王に選出された。その40年後、フリードリッヒの長子=皇太子ハインリッヒはイタリア王位を受け継ぐことになった。
これに対してヴェネツィアはローマ皇帝の権力拡張を抑えるために、南イタリアとシチリアを支配するノルマン公と手を結んで、北イタリア諸都市の防衛団体ロンバルディーア同盟結成のために積極的に動いた。こうして皇帝バルバロッサとヴェネツィアとの戦いが始まった。
ところが、バルバロッサと交戦中のヴェネツィアの側面を衝いて、ビザンツ皇帝マヌエル1世が攻撃を仕掛けた。マヌエルはヴェネツィアの商業支配をくつがえすため、1172年、帝国領内のヴェネツィア商人の商品を没収したうえに、イタリア半島に軍を派遣してアンコーナを占領し、ノルマン公国ナーポリでの反乱を支援した。
ところが1176年、ビザンツ皇帝はセルジュークトゥルコとの海戦に敗れ、アドリア海側からの攻撃を避けるためヴェネツィアと講和を結ばざるをえなくなった。皇帝は結局のところ、ヴェネツィアの商業特権の回復と没収損害の弁済を行なうはめになった〔cf. Mcneill〕。
この一連の紛争と危機のなかでヴェネツィア域内の統治体制の変革が進んだ。
200~300人の貿易企業家のグループ(商人貴族)が大小さまざまの評議会を組織して、政庁の運営と戦争の指揮について検討し、統領 doge の権限を縮小した。また、評議会の指導下で政府財政収入の拡充をめざして、公債によって資金調達を行なうシステム、つまり商業利潤を再分配して統治装置の運営のために利用する仕組みをつくりあげた。
そして、地中海全域での商業利権を守り拡大するために、戦争よりも外交を優先する戦略を採用することになった――利害が敵対し合う陣営の双方から商業特権を獲得し取引しやすくするためだ。ゆえに、ヴェネツィアは軍事同盟としてのロンバルディーア同盟から離脱した。
ヴェネツィアが戦線離脱したのち、イタリア諸都市の同盟軍は結局、ローマ皇帝軍を打ち破り、講和協定によって、イタリアの皇帝に対する臣従は名目的なものにとどまることになった。
さて、バルバロッサとロンバルディーア同盟との戦争でやむなく外交的中立をとったヴェネツィアではあったが、戦争後には両者の講和を仲介してローマ皇帝への影響力を強めることになった。その結果、ヴェネツィアはローマ皇帝領の全域で皇帝による課税の免除権と通商権を獲得した。この優位を利用して、ヴェネツィア人たちはブルグンド、ドイツ・中欧各地に通商の足場をつくりあげていった。
やがて12世紀末には、ドイツとビザンツの2つの帝国(皇帝権力)が衰退ないし没落していったため、地中海とヨーロッパ大陸における北イタリア諸都市の政治的立場はいよいよ強化され、貿易利権の拡張がいとも容易になった。
1204年、ヴェネツィアはフランク王国から来た第4回十字軍騎士団と共謀して、皇帝の権威がすっかり形骸化していたコンスタティノポリスを征服した。そのため、ビザンツ帝国の領土はいくつもの断片に分解してしまった。
ギリシア(バルカン半島南端)はラテン帝国が支配し、その後背地のほとんどはブルガリア王国が支配し、アナトリア北西部はニケーア帝国が支配するようになった。バルカン半島の西部はエピロス侯国とセルビアの土侯たちが分割した。
エーゲ海の諸島はイタリア系住民とフランク王国出身の騎士たちが支配したが、その後、その支配が長期間継続したのは、西ヨーロッパ向けに農作物を生産する所領の経営を組織して、輸出貿易を発展させることができた場所だけだった〔cf. Mcneill〕。
イタリア商業資本の貿易ネットワークの内部に包摂されていることが、エーゲ海諸島でのレジームの存続の条件だっただったのだ。つまりは、在地の支配階級が政治的権力を保つために経済的に従属することを意味していた。
コンスタンティノポリスにはヴェネツィア人遠征隊の住民共同体――植民都市集落――が形成され、この共同体は、ヴェネツィア市の統制から自立した形でラテン帝国の防衛のために交易拠点を支配していた。しかも、ヴェネツィア人貴族には、交易の要衝地がラテン皇帝から領地として授封された。クレタをはじめとするエーゲ海諸島では、ヴェネツィア人貴族がラテン皇帝の臣下として騎士団を率いて統治し、交易・海運の拠点を支配した。ヴェネツィアは帝国領土の8分の3を支配したという〔cf.Bec〕。
レヴァント地方には、いまだ十字軍の騎士たちが建設した諸侯国があって、名目上、ラテン皇帝に臣従していた。ラテン帝国の皇帝は当初、ヴェネツィア人だけに営業税を免除しすべての港を開放した。
こうした政治的環境の変動を背景にして、地中海東部とエーゲ海、黒海方面では、ヴェネツィアとジェーノヴァの対抗を軸としてイタリア諸都市の通商競争が展開されることになった。この通商競争に熾烈な軍事的敵対や抗争がともなっていたのは、言うまでもない。
だが、ラテン帝国と地中継東部におけるヴェネツィアの商業特権の独占にはヒビが入っていった。
1206年にはピーサ商人に帝国での貿易特権が認められた。コンスタンティノポリスとの交易から排除されたジェーノヴァは、ヴェネツィア商人の独占を崩すため、帝国をめぐる海域で私掠船団による海賊攻撃を仕掛けて、航海のリスクとコストを著しく高めてしまった。
しかも、ラテン帝国はブルガリアの攻撃を受けていた。ヴェネツィアが帝国と交易路の防衛のためにガレー船団を送り込むためには、ジェーノヴァ人と講和し、その交易権を認め、海上攻撃を止めさせなければならなかった。ゆえに、やがて1218年には、ジェーノヴァの交易参入が許可された。
ヴェネツィア政庁は、熾烈になった通商競争での地位を強化するため、翌19年にはコンスタンティノポリスのヴェネツィア人共同体に対して本国の軍事的・政治的な主権(宗主権)を受容させ、周辺海域における航路においてガレー船団による哨戒を始めた〔cf. Mcneill〕。
やがて1261年、ニケーア皇帝位を簒奪したギリシア人がジェーノヴァの支援を受けてビザンティウムを征服し、形の上ではビザンツ帝国を復元した。新たな皇帝は権力の維持のために、イタリア諸都市と商人たちのあいだの競争と反目をしたたかに利用した。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
◆全体目次 章と節◆
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3節
西ヨーロッパの都市形成と領主制
第4節
バルト海貿易とハンザ都市同盟
第5節
商業経営の洗練と商人の都市支配
第6節
ドイツの政治的分裂と諸都市
第7節
世界貿易、世界都市と政治秩序の変動
補章-3
ヨーロッパの地政学的構造
――中世から近代初頭
補章-4
ヨーロッパ諸国民国家の形成史への視座
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成
第1節
ブリュージュの勃興と戦乱
第2節
アントウェルペンの繁栄と諸王権の対抗
第3節
ネーデルラントの商業資本と国家
――経済的・政治的凝集とヘゲモニー
第4章
イベリアの諸王朝と国家形成の挫折
第5章
イングランド国民国家の形成
第6章
フランスの王権と国家形成
第7章
スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
第8章
中間総括と展望