第2章 商業資本=都市の成長と支配秩序
第1節 地中海貿易圏でのヴェネツィアの興隆
この節の目次
ここではまず、地中海貿易圏のなかでヴェネツィアがどのように通商拠点を獲得、拡大し、通商戦のなかで覇権を掌握していったのかを考察する。そのさい、地中海世界の状況のなかに位置づけてヴェネツィア都市内部の統治=権力構造のあり方を分析する。
イタリア半島とバルカン半島の両方の付け根に位置するヴェネツィアは、ビザンツ帝国の辺境に位置していたが、帝国秩序のなかで、アドリア海からバルカン半島一帯におよぶ地域に商業網と政治的足がかりを築いていた。
ビザンツ帝国の首府コンスタンティノポリスは、地中海交易ネットワークの中核都市の1つであり、情報と運輸、そして商品の集積地であった。ヴェネツィアは11世紀に、ノルマン系フランク人の襲撃からバルカン半島を守ったことをきっかけにして、この都市に対する支配的な影響力を獲得した〔cf. Mcneill〕。
他方で、北イタリア諸都市の商人たちは十字軍の遠征を支援し、シリア、パレスティナ方面での補給経路を組織した。レヴァント地方はアジアから地中海にいたる交易経路の結節点になっていたから、十字軍諸侯勢力との結びつきは、イタリア商人に、まさに成長しようとしている地中海貿易における東方の戦略的拠点を用意することになった。
ジェーノヴァ、ヴェネツィア、ピーサなど北イタリア諸都市の商人たちは競争し合いながら、アドリア海、黒海、地中海を縦横に走る航路をつうじてアナトリア、シリア、エジプト、北アフリカ、イベリア半島を結ぶ広域的な貿易圏をつくり出した。なかでもヴェネツィアは、ビザンツ帝国での特権的地位をしたたかに利用して、東アジアやインド洋方面、中近東からレヴァントを経由して運ばれる香辛料や織物、絹、穀物などを西ヨーロッパに持ち込んだ。
これらの商品の多くは奢侈品であり、聖俗の領主層をはじめとする特権的諸階級を顧客としていた。利潤率は高かったが、特権的諸階級の気まぐれな欲望に依存せざるをえない商業だった。
だが、やがてヨーロッパでの都市と商業の成長とともに奢侈品の消費量が増大し、さらに食糧や工業原材料などの経済的再生産に不可欠の物資がやり取りされるようになった。
北イタリア諸都市の政策の背後には、地中海貿易の支配への欲求が働いていた。広域にわたる支配を基礎づけたのは特権的商業、つまり遠距離貿易であった。それは、都市のなかで経済的に最有力で社会的に最も名望ある住民が営む活動であった。
中世ヨーロッパでは当時、北イタリア諸都市が地中海世界をめぐるイスラム交易の遺産を引き継いで、大きな成功を収めていた。なかでも、遠距離貿易を営む大商人たちこそ、イタリア諸都市の東方政策の推進者だったとフリッツ・レーリッヒは言う〔cf. Rorig〕。
イタリア人たちは広く地中海世界での交易で最優位を築き、ことにレヴァントから仕入れた香辛料や陶器などの奢侈品をガリアやゲルマニア、さらにネーデルラント、バルト海地方にまで売りさばき、膨大な利潤を獲得した。そして、この交易路を支配し、巨大な資金力に物を言わせてヨーロッパの遠距離交易をコントロールしていた。ハンザのバルト海貿易さえも、フランデルンの繁栄も、イタリア商人のヘゲモニーに屈していたのだ、とフェルナン.ブローデルは言う〔cf. Braudel〕。
ところで、13世紀から16世紀までの期間は、地中海貿易圏と北海=バルト海貿易圏とが大西洋岸航路や西ヨーロッパ内陸の交易路をつうじて融合していく時期だった。バルト海の交易路は東ヨーロッパとスカンディナヴィアを西ヨーロッパに結びつけていた。その過程で、とりわけネーデルラントと北海=バルト海貿易の急速な成長がヴェネツィアの最優位を条件づけていた。
だが、この融合過程の結果として、貿易と金融、製造業の中心は北イタリアから北西ヨーロッパに移っていき、やがてヴェネツィアの優位を掘り崩すことにもなった。14世紀にヴェネツィアが手にしたヘゲモニーは、ヨーロッパ世界市場成立への「つかの間の序曲」だった。
アドリア海の北端、イタリア半島の付け根にある小さな島々や中州の集落が結集し政治的に同盟することになったのは、北イタリアに諸侯国を建設したランゴバルド族の攻撃やバルカン方面からのマジャール族の襲撃に備えるためだったという。
フェルナン・ブローデルによれば、沿岸部の狭い中州や小さな島々からなるヴェネツィアには、都市集落しか成立しえなかったという。つまり、耕地や牧草地が成り立つ余地のない市域には、商品の製造と売買、金融やサーヴィスという経済活動しかなかったのだ。生存と経済活動のための食糧や原材料――小麦・きび・ライ麦・家畜・チーズ・野菜・ぶどう酒・油・木材・石材など――は交易によって手に入れるしかなかった。しかし、商業網にからめとられた社会空間のなかでは、工業・商業・サーヴィス業の方が農業活動よりも生産性が高かった。とりわけ通商によって諸地方の分業関係を組織化することは、利益の薄い仕事を他人に任せて自らは利益の決定的部分を取り込むという仕組み、つまりは不均衡・不平等を生み出すことだった。本格的な領土を持たなかった都市は、そういう方式で生きていかざるをえなかったということだ〔cf. Braudel〕。
9、10世紀にヴェネツィアの遠隔地通商網が形づくられ始めた頃、ビザンティウム、イスラム圏、そして西欧キリスト教世界がせめぎ合いながら地中海を分かち合っていた。イスラム勢力は地中海を席巻して、ビザンツ帝国の古めかしい首都を圧迫していた。が、コンスタンティノポリスは巨大な富を蓄積しており、その重厚な帝国統治装置を容易に崩すことはできなかった。
それに対して、ジェーノヴァ、ピーサ、ヴェネツィアというイタリアの都市は、帝国の経済圏にしだいに進入し拠点を築いていった。ことにヴェネツィアは、形の上でだけビザンツ帝国の支配下に身を置きながら、帝国の要所にがっちり入り込んで帝国のために物資の補給・通商などのサーヴィスを担い、なおかつその防衛に力を貸しさえした。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
◆全体目次 章と節◆
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成