1939年秋にナチスドイツはポーランドに侵攻して、その大半を制圧した。この事態を受けてブリテンはフランスと同盟して、ドイツに宣戦布告した。ところが、ドイツに直接に軍事的圧力を加える動きはとらなかった。というのも、ブリテンと政治的・イデオロギー的に敵対するソ連(社会主義レジーム)に対してドイツの攻撃力が向かうことを半ば期待していたからだ。
ブリテンは、ドイツの軍事的膨張に対抗するために軍備増強のペイスを際立って加速することもなかった。
また、ヨーロッパおよび地中海東部でのドイツの戦線拡張を抑え込むために、合州国を同盟に加えるための説得努力もないがしろにされていた。
というのも、
経済的(生産技術や金融能力など)には、世界市場におけるアメリカの権力はブリテンを凌駕し、少しずつ政治的・軍事的覇権の構築に向けて目覚めつつあった。とりわけ、中東(中央アジアや地中海東部)や大西洋地域で従来のブリテンの権益や影響力を侵食し切り崩し始めてきていた。つまりは、強力なライヴァル、競争相手でもあった。というわけで、合州国を緊密な同盟に引き入れることで、ブリテンのヨーロッパや中東、地中海などでの地域覇権をこれ以上蚕食されることを恐れていたからだ。
そして、ブリテン国内での世論は、ただちにドイツとの戦争(重い財政負担がともなう)を好意的に支持する方向に向かわせるのが難しい状況にあった。世論の多数派は、ブリテンの世界市場での優越の維持のためには、ヨーロッパ大陸での状況よりも、大西洋や地中海、インド洋などでの世界貿易航路の安全保障の確保の方がずっと重要だと考えていたからだ。
世界貿易や国際金融での競争相手が増えたうえに、ブリテン国内では際立った競争力を備えた工業の停滞が目立っていた。それゆえ逓減していく経済成長と財政能力から見て、軍事力の増強への手当てが後回しになりがちだった。だから、この数十年間、ブリテンは列強諸国に海軍力拡大の抑制を呼びかけてきたが、1930年代にはその「平和攻勢」も破綻していた。
というわけで、ドイツの関心と攻撃力が東部戦線に向いているあいだに、ブリテン政府は徐々に(緩慢なペイスで)軍事技術の開発や軍備増強を進めていけばよい(いくしかない)という日和見的な判断に傾いていた。要するに、できるだけ時間稼ぎをして、ドイツのと正面衝突、全面衝突の局面の到来に備えるというわけだ。
そうなると、ドイツにあまり強い刺激を与えて、攻撃力の主力がブリテンに向かわないようにする、という消極的な戦略(あるいは無戦略)にとどまっていた。
そのせいか、ブリテン自身の本土防衛をめぐる航空戦力、航空機の生産能力については、かなり過小評価をしていた。その一方、時代の最先端技術である戦闘機や爆撃機の操縦士や搭乗員の訓練・育成の体勢が幼弱であることには、無自覚だった。
とりわけ戦闘機( Fighter )操縦士の育成の手薄さ――というのは、戦争に突入すれば、戦闘機乗り人員の損耗がひどくなり、その系統的な補充が不可欠になるから――には、目をつぶっていた。
戦闘機の操縦士は軍のなかでもエリート・テクノクラート(士官クラス)で、これまでは貴族家系や富裕階級の青年から補充してきた。そのうえ知性や身体能力の高さを要求されるので、育成訓練期間も長く金もかかった。
その弱点は、ドイツの航空戦力がドーヴァーを超えてブリテン本島に襲いかかってくるまで、軍部の問題として大っぴら(公式)に検討されることもなかった。ブリテンは、ハードウエアとしての航空機の損耗には比較的速やかに補充対応できたが、人員の損耗への対応は後手に回っていた。それまでブリテンの航空戦力に挑戦する相手はいなかった。
ところが、1940年5月、ナチスドイツは攻撃の主要な矛先を西に向けた。ラインラントから下流の低地地方、フランスの北東部国境の方面に突進していった。たちまちベルギー王国を制圧、ネーデルラント王国を占領、そのままフランス共和国の心臓部に侵略軍がなだれ込み、6月14日にはパリを支配下に置き、22日にはフランス政府代表に降伏文書に調印させた。