原題 : Is Paris Burning? (1966年)
原作 : Larry Collins & Dominique Lapierre, Is Paris Burning?, 1965
ラリー・コリンズ&ドミニク・ラピエール著 『パリは燃えているか』1965年刊
見どころ
1944年8月の末近く、パリはナチスの軍事的支配から解放されました。
ところが、パリ市街が、それゆえまた、エッフェル塔、ノートルダム大聖堂、ルーヴル宮など、この都市にある歴史的建築物や史跡――今では世界遺産となっている――がほぼ無傷で残されたのは、いくつかの偶然と幸運が重なった結果でした。
というのも、このときすでに精神をひどく病んでいたヒトラーは、ドイツ軍のパリ占領司令官に対して、「パリ撤退のさいには徹底的に爆破し、燃やしつくして灰燼に帰せ」という無謀な命令を発し、そのためSS( Spitzsoldaten :突撃隊、正確には先鋭兵団)を派遣していたからです。
この作品は、一連の偶然の連鎖がなぜ、どのようにして起きたのかを史実にもとづいて描き出した傑作です。
ヒトラーは、新たにドイツ軍パリ占領管区に赴任する司令官に命じた。
「パリを明け渡すときには焼き尽くして廃墟にせよ、爆破し、破壊しつくせ」と。
8月はじめにドイツ軍はノルマンディで敗れ、連合軍にヨーロッパ大陸への上陸を許していた。
連合軍は、ナチスの防衛陣を次々に打ち破って、ライン河に向かっていた。パリはその途中にある大都市だ。
ヒトラーは、ドイツがパリを占領しているという事実の「見栄え」を何よりも重要視していた。
だが、多くのドイツ軍将官たちは、パリ占領はドイツ軍の負担になるだけで、戦略上・戦術上のメリットはほとんどないと判断していた。パリなんか早く連合軍に引き渡してしまって、ドイツ国境の防衛戦線に戦力と資源を集中すべきだ、と。
なにしろ、パリ市民たちはナチス嫌いで、ことあるごとに反乱を起こし、抵抗していたのだ。その鎮圧や抑圧のために、ドイツ軍は大きな戦力と資源を投入していた。
しかも、連合軍の接近とともに蜂起の気配は濃厚になっていた。
連合軍も、巨大な人口を抱えたパリを軍事的に開放する作戦を、できるだけあとに引き延ばそうとしていた。早くても、主力部隊がドイツ国境線に達してからでいいと考えていた。
そこで、連合軍はレジスタンスに「蜂起はするな」と命じていた。
ところが、レジスタンス各派は政治的勢力争いのために、蜂起と解放闘争を急いでいた。各街区で小競り合いが頻発し、暴発寸前だった。
そして、ついに蜂起と戦闘が始まってしまった。パリ警視庁の警官たちが最初に立ち上がった。 市民たちが蜂起したパリの街区には、バリケイドで囲まれた「解放区」が生まれた。
しかし、ドイツ軍は警視庁に戦車隊を派遣した。ろくな武器もない「解放区」は、重武装のドイツ軍に包囲され、しだいに孤立し、手詰まりになっていった。
ナチスSSは、多くの建造物に爆薬を仕かけ始めた。
危機的状況のなかで、フランス共産党シンパのガロワが支援を求めて、連合軍への使者に発った。武器投下を要請するためだ。
すでに6人が派遣されたが、1人も生還できなかった。
何とか連合軍陣地にたどり着いたガロワは、連合軍にパリの実情を訴え、来援を要請することにした。
渋る連合軍司令部。連合軍はやって来るのか。パリの運命は…?。
このあと、解放にさいして、パリが経験した混乱や紛争、そして幸運な偶然の連鎖を描き出すことにする。
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