大輔がビブリア古書堂で働き始めてまもないある日、少しくたびれた感じの初老の男が店にやって来た。志田という男で、「せどり屋」をしている。しかも、ビブリア古書堂の一階の居間に無料で間借りしているようだ。
その代わりに、食事の支度と掃除を担当しているらしい。つまり、この家では、本来の住人である栞子と弟に加えて、居候の志田が共同生活しているのだ。
「せどり屋」とは、古書を安く買って高く売って利ザヤを稼ぐなりわいだ。
栞子によれば、志田は以前、社の社長だったのだが、経営に失敗し破産して住居の家族も失って、ホームレスになったという。そのため、この近くの川の橋の下に下で暮らしていたが、栞子の母親と知り合ったのを機会に、せどり屋として人生の再起に挑んでいるらしい。
今では、ビブリア古書堂の居候になっていて、ときおり価値のある古書を見つけては、ビブリア古書堂やそのほかの古書店に持ち込むらしい。とはいえ、古書の仕入れのためにしばしば出かけたまま何日も帰らないことがあるようだ。
大輔としては、このとき、ビブリア古書堂でアルバイトするようになってから初めて志田に会ったことになる。
その日、志田は、ここに来る途中で大事にしている愛読書を盗まれたとぼやいて落胆していた。愛読書とは、新潮文庫の小山清著『落穂拾ひ・聖アンデルセン』だ。
志田はその日、ビブリア古書堂に持ち込むつもりの古書とその文庫本を自転車に載せて、近くの小袋谷の小径を走っていた。ところが、急にひどい腹痛がして、視覚の寺院のお手洗いを借りようとして山門下の石段を登りかけた。
すると、背後でガチャンと音がしたので、振り向くと、女子高生が、志田が小径の端に停めたままにした自転車にぶつかって転んでいた。彼女の荷物も志田の荷物も小径に転がってしまっていた。
だが、急いでいた志田は、「おい大丈夫か。すまんが、自転車を起こしておいてくれ」とだけ声をかけて、寺に駆け込んでお手洗いを借りた。
そのとき女子高生は、えんじ色の紙袋のなかの荷物をごそごそいじりながら、何かを探していたように見えた。
ところが、志田が用を足して戻ってみると、愛読書の文庫本がなくなっていた。おそらくあの女子高生が盗んだのだろう。だが、志田の荷物のなかには、ほかにもっと高価そうな本が何冊も入っていたのに、それはなくなっていなかった。
安そうな古い文庫本だけがなくなっていたのだ。
その日、志田がその場所に来たのはネット古書店を営む笠井という人物と会うためだった。その笠井は寺の石段参道の下で志田を待っていた。 ビブリア古書堂のなかで、志田はそんな事情を栞子と大輔に語った。