数日後、奈緒が夜にビブリオ古書堂で志田と会って文庫本を返すという連絡が入った。約束の時間は古書堂の閉店後だという。志田はビブリア古書堂のカウンターに座り、奈緒を待つことになった。
大輔は仕事が一段落してから栞子とともに篠川家の居間で、引き戸の隙間から志田と奈緒との面会の様子を覗くことになった。その日、大輔は篠川家で志田がつくった夕食を食べることになっていたのだが、志田の文庫本盗難事件の結末が気になっていたのだ。
約束に時間にビブリア古書堂にやって来た奈緒は、「ごめんなさい、本を返します」と言って文庫本を手渡した。
その文庫本を軽く手でなでた志田は、ため息をつきながら、「ああ、かわいそうにな……」ともらした。 スピンが切られてしまった文庫本を志田が哀れんだのだと思った奈緒は、「それは直らなくて、本当にごめんなさい」と謝った。
「いや、俺が言っているのは本のことじゃないんだ。 お前さんのことだよ。 こんなことまでしたのに、プレゼント受け取ってもらえなかったんだろ」
「えっ…… あたしは謝りに来ただけです。 同情なんか要らない。もうあんなことどうだっていい!」
「いや、どうでもよくはねえよ。お前さんは気持ちを踏みにじられて傷ついた…… それは間違いねえことだぜ。そんな嘘をつくことはねえんだ」
「あたしは嘘なんか……」
「そんな強がりなんか言わなくても、普段のお前さんと関わりのある人間はここにはいねえ。もによかったら、何があったのか俺に話してみねえか?」
「あんなこと、あんたに話したって何の役にも立たないじゃない!」
「まあ、たいして役に立たねえかもな」と志田はあっさり認めた。
「でもよ、誰かに話すだけでも気が楽になるってこともあるぜ…… ほら『落穂拾ひ』のなかにもあったろう。
『何かの役に立つということを抜きにして、僕たちがお互いに必要とし合うという関係になれたら、どんなにいいことだろう』ってな。
甘ったるいけど、いい言葉じゃねえか? 棟に溜まっていることがあるなら、俺は何でも聞くぜ」
すると、奈緒は強く目をつぶって、大きく口を開いてハアッと息を吐きだした。そして、涙をこぼし始めた。声も出さない無言の涙を。ひとしきり涙を流すと、少女は訥々と話し始めた。
大輔は引き戸の隙間からそこまでの成り行きを見守っていたが、静かに引き戸を閉めた。そのあとのことは志田と奈緒だけの問題だと考えたのだ。
さて、奈緒が帰ると、志田は居間に入ってきて、「あの子はこれもくれたんだぜ。 スピンを切っちまったお詫びだとさ」と言って、奈緒から受け取ったプレゼントの小箱をテーブルの上に置いた。
小箱の蓋を開けてみると、小洒落た爪切りと銀色の金属製の耳かきが入っていた。 それを見て栞子が「『落穂拾ひ』のなかで主人公が若い娘から贈られたものと同じですね」と言った。
「気が利いているだろ。金目のものじゃねえ分なおさらだ。
今、あの子から経緯を聞いた後、作者の小山清の件では話がもろ上がったんだぜ」 志田が笑顔で告げた。
その語、志田は人勢の先輩ないしは師匠として奈緒の相談に乗ったりして、親しい話し相手になった。