数年前、イアンは最愛の息子、ルイスをプールでの事故で失った。溺死だった。その後、自分の殻に閉じこもったイアンは、ピッパとも離婚した。ピッパとは深く愛し合っていたのに離婚したようだ。離婚の本当の理由は明らかではないようだ。
ルイスの死後、イアンはたぶん大学時代からの知り合い、政府の情報機関、秘密情報局第6課――SISの防諜課でMI6という通商がある――のチャールズ・ヴァン・クーアーズによって、国家安全保障のためにはたらくエイジェントとしてスカウトされた。チャールズは、その家門名からホラント系の貴族家門の出自であることがわかる。
イアンが諜報活動に携わるようになったのは、愛息を失った心の空洞を埋めるためかもしれない。
「こんな悲惨な世界を少しでも変えることができたら、死んだルイスに少しは誇れるかもしれない」ということらしい。
外交官として、世界の悲惨な現状とか安全保障のための裏の交渉や闇の取引をさんざん見てきたので、そんな状況を少しでも変えたいという願望が、愛息の死で一気に膨張したのかもしれない。
で、チャールズから依頼された問題は、深刻な事件だった。
1990年代のソ連崩壊後の混乱のなかで、ソ連軍が開発した超小型原子爆弾がいくつか紛失した――スーツケイスに収納された核兵器の紛失は事実で、この事件にもとづいてこのフィクションがつくられた。
この物語では、そのうちの1つを、当時陸軍特殊部隊にいたセルゲイ・クルーショフが盗み出したことになっている。
やがて、セルゲイは、売春とか賭博などとともに、タジキスタンとか中央アジア産の麻薬(ヘロイン)の世界的密売組織を組織して、有力なロシアンマフィアの1つの頭目となった。そして、潤沢な資金とか国際的情報ネットワークをつうじて、かつて盗んだ小型核兵器を売りさばこうと計画した。
その謀略に関する情報が、MI6の捕捉するところとなった。
セルゲイの組織の拠点はタジクのドゥシャンベだ。そして、イアンはそこの駐在領事官のエリート外交官だ。腐敗した外交官を装って、セルゲイの組織に接近する条件が整っていた。目下のセルゲイのファミリーの稼ぎ頭のビズネスであるヘロイン密輸出に手を貸して「信頼」を得て、だんだん組織の奥の秘密に近づいていった。
やがて、表向きセルゲイは、イアンを最も信頼を置く仲間として扱い、その外交特権を利用して、核兵器の世界市場での取引の担い手とした。利用価値がなくなったら、「知りすぎた」イアンを闇に葬ることも想定してのことだろうが。
という文脈では、ブリテンへのヘロインの大量密輸はMI6の作戦の段取りのうちだったわけだ。セルゲイの組織に、イアンの利用価値を売り込み誇示するための。つまり、チャールズは国内への大量のヘロイン密輸を意図的に呼び起こしたのだ。
ブリテン国内でどれほどのヘロイン依存症患者が増えようが、麻薬密売資金でロンドンの犯罪組織がどれほど肥大化しようが、国家の安全保障のためには、毛ほどの痛痒も感じない。これが、オクスブリッジ出身のエリートが牛耳るSISの作戦だったのだ。