マッケンジー脱出作戦 目次
収容所脱出の皮肉な結末
見どころ
あらすじ
物語の背景と時代設定
捕虜の扱いの公平性
辺境の収容所
手錠事件
コナー大尉の赴任
陰謀の巣窟
腹の探りあいと駆け引き
脱走計画
怪物、シュリューター
早朝点呼での乱闘
同胞殺害
状況の読み合い
逃走と追跡
巧妙な逃走方法
ドイツ兵発見
皮肉な運命
冷めた歴史観
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史上最大の作戦
パリは燃えているか

物語の背景と時代設定

  この作品には、年代を表す台詞や説明がないので、第2次世界戦争の後半期のどこかとしかわからない。だが、ドイツ兵の脱出のために「ウーボート――ドイツ語の Unterseeboot ウンターゼーボートの略称:小型潜水艦」がスコットランドのフィヨルド海岸に侵入できたということから、1942年の秋頃ではないかと推定できる。
  この頃までなら、ドイツは北海方面での制海権をブリテンに押さえられたものの、まだブリテン諸島近海への接近が何とかできたからだ。それ以降だと、ドイツ軍はバルト海にまでおよぶ地域での制海権や制空権を完全に失ったために、北海沿岸北ドイツのウーボートの出撃・補給基地も確保しにくくなり、このような作戦はおよそ決行不能になったようだ。

  だが、脱走したドイツ兵のほとんどが、ウーボート兵(海軍兵)だったことから、兵員損耗がとりわけて酷かった潜水艦兵――しかも訓練と実戦経験のある――を少しでも救出しようと、1943年以降に、決死の作戦を強行したかもしれない。
  そうだとすれば、脱走に成功しウーボートに回収されたドイツ兵を待っていたのは、あまりに絶望的な戦況だった。そもそもドイツの港湾への帰還がきわめた困難だったし、帰還できても、ふたたび戦死必至の海戦場に送り出されて死ぬ運命が待っていたからだ。ブリテンで敗戦を迎えたほうが、はるかにましだったはずだ。

捕虜の扱いの公平性

  この映画に描かれるとおり、ブリテン側のドイツ兵捕虜に対する扱いはきわめて公平だった。というのも、18世紀以降、ブリテンの主導のもとで、ヨーロッパ諸国家のあいだの協定規範としての「交戦規定」が形成・普及・定着していったことから、ブリテンはいわば模範モデル国家だったからだ。
  戦争での戦闘員捕虜や戦場における非戦闘員への扱いを、人道と市民権思想にもとづく規範や価値観で規制しようという動きを定着させたのは、まさにパクスブリタニカ、すなわちブリテンの世界覇権だったのだ。
  捕虜となった敵軍の士官の身柄の保護については、彼らの多くが貴族層に属していたことことから、捕虜の収容や統制管理に権限をもつ士官もまた多くは貴族層だったから、ヨーロッパ的規模での貴族階級の「特権的身分意識」や「連帯感」がはたらいていたという歴史的背景もあった。

  ところが、ブリテンの貴族優位の身分制秩序はとりわけ政府組織、なかでも軍組織のなかに色濃く反映され、将官・士官と一般兵卒との地位の格差はひどかった。そして、その秩序と規範を捕虜収容所にも適用していた。もとより、ドイツ軍の上級士官には貴族家系の出身者が多く、彼らは概して成り上がり者のヒトラーとナチス党に対して冷淡だった。
  ブリテンでは民主主義と身分差別・階級格差がともに成り立ち、相互に補完し合っていたのだ。そういう意識が敵軍捕虜の収容所の運営にも作用していた。つまり、ブリテン軍によるドイツ軍捕虜の扱いでは、貴族層出身者が多い士官層と下級兵卒層に対する態度がかなり格差があったということだ。
  それもあって、ドイツ軍捕虜収容所では、エリート士官(その多くが航空兵)と兵卒とのあいだには隠然たる格差と階級闘争があったようだ。

  それに何より、ブリテン人とドイツ人は、歴史的にテュートン(アングル=ザクセン――アングロ・サクスン――)民族としての親近性が強かったという事情もある。古いエリート家系にはフランス系と並んでドイツ出身家門が多かった。
  というのも、なにしろ、「名誉革命」直後にブリテン国家は、追放したステュワート王家に代わる新たな王をドイツの君侯ハノーファー家から迎えているのだ。そのとき新王の側近として、多数のドイツ人貴族がいっしょにブリテンにやって来て、エリートとして社会に定着していった。その後、軍や行政機関の幹部には、このドイツ系エリート家系の出身者がかなりいた。ことに軍人には多かったという。

  というわけで、収容所内では、捕虜としての地位にともなう制約を受け入れる限りで、半自治的な集落としての生活を認めていた。したがって、収容所内には生活必需品を製造するための工房の設立・運営が許されていた。工房の内部では、定期または抜き打ちの検査や監視を受けるけれども、普段は「私的自治」が認められていて、たいての物は製造できた。
  監視の目を逃れて、無線機や脱走用の工具すら製造可能だった。

  軍の捕虜収容所内では捕虜の人権にも配慮する戦争法規・交戦規定が通用していたが、一般市民社会では排他的な国民意識ナショナリズムが組織化されていたので、とりわけドイツ軍の空爆が始まってからは、ドイツ国民・国家に対する敵対感情が強まっていた。

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