キャンペインのはじめの頃――人気があった頃――に、メディア受けするギャグノンに「当社に来ないか。君の知名度なら販売実績抜群となるだろう!」と誘った企業経営者たちも、今や、ギャグノンの求職応募にまともな返答すら返さなかった。
ギャグノンは一時セールスマンをしていたが、泣かず飛ばずで年齢が行ってからは結局、企業の雑用係の仕事に甘んじながら生涯を終えたという。
そのギャグノンがセールスマンをしていたある日、テクサス週の砂漠の道を車で走っていたとき、アイラ・ヘイズによく似た人物が道端を歩いているのを見かけた。だが、家路を急いでいた彼は、一揖しただけで、その男の脇を通り過ぎた。
ブラッドリーは故郷に戻って恋人と結婚した。そして、地元の葬儀会社に勤務し続けた。その葬儀会社の社長が引退するときに、ブラッドリーは会社を買い取って経営を続けたという。
そして、老衰が進んで死を間近に感じ始める頃、しきりに戦争中の体験や光景を思い出して苦悩するようになった。そして、病床に横たわるや、しばしば、うわごとのように昔の戦友、戦場の仲間の名を呼ぶようになった。
彼の死後、ジャーナリストになっている息子のジェイムズが、父が死の直前に口にしていた戦争体験、硫黄島でのできごと、公債キャンペイン、仲間のことを調査し始めた。
この映画の物語の展開は、ジェイムズが語り部となって過去のできごとを回想する運びとなっている。
ところで、アイラのことだが……
ギャグノンがテクサスの砂漠の道で観たのは、やはりアイラだった。
彼は、そのときも相変わらずアルコールに依存した荒れた生活を送っていたらしい。
その日の朝、彼は、アリゾナ州の居留地近くの町の警察の留置場を出たばかりだった。問題行動で拘留されていたのだ。
けれども彼は家に戻らず、テクサス州のハーロンの生家に向かって歩き出していた。そしてヒッチハイクを続けながら、ハーロンの故郷の家をめざした。そのときに、ギャグノンが傍らを通り過ぎたのだった。
ハーロンの生家には、細々と酪農を営んでいるハーロンの父親が1人で暮らしていた。母親は、ハーロンを戦場に送り出した夫を厭うようになり、家を出ていってしまったからだ。
アイラはその家にたどり着いて、あの写真の「真相」を父親に告げた。父親は、すぐに妻に電話して、「真相」を語った。ハーロンは激戦地の山頂に星条旗を打ち立てた英雄のひとりだったのだ。
「真相」はハンクの母親にも伝えられた。
翌年の戦没者追悼記念日の集会では、山頂に星条旗を掲げる若者の石像が完成して披露された。
そこに、関係者が招待されたが、ハンクの親族は招待されずに、変わりにハーロンの母親が招待された。ギャグノン夫妻やブラッドリー夫妻も、アイラも参加した。
ブラッドリとしては、それがアイラの見納めだった。
というのも、それから間もなく、酔いつぶれたアイラが自宅の庭で横死しているのが発見されたからだ。
ところで、硫黄島の擂鉢山頂上に2度目に旗を掲げようと奮闘した兵士たちの行動は「英雄的行為」ではないのだろうか。もとより、その行動の原因は、保存用に山頂の星条旗を持ち返るためのメイキングではあった。だが、日本軍の執拗な抵抗線が続いていて、擂鉢山がきわめて危険な正常であったことには変わりがない。
若い兵士たちの勇気と自己犠牲的精神がなければ達成できなかったものだ。
政府の都合で「山頂の英雄」は2通りつくられ、状況に応じて讃えられるメンバーが変わってしまったわけだ。事実の評価も個人の評判も、状況によって翻弄されるということなのだろう。
第2次世界戦争の最大の勝利者として栄光を手にしたアメリカ合衆国ではあった。国民国家としては。だが、戦時公債キャンペインでは激戦地の英雄として一時的にメディアの寵児となった若者たちも、政策としての戦争に駆り立てる国家の重みに押しつぶされ、翻弄されたのだった。
『父親たちの星条旗』は、国家の政策としての戦時公債キャンペインという事象を切り口にして「戦争と個人」「国家と個人」を描いた傑作だ。
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