第3章 都市と国家のはざまで
――ネーデルラントの都市と国家形成――
第3節 ネーデルラントの商業資本と国家
この節の目次
ブローデルによれば、ネーデルラントにとっては、インド洋を経由して東南および東アジア貿易を掌握したことが世界経済におけるヘゲモニー獲得へのステップの仕上げとなったという。
ヨーロッパ世界経済を長期的に把握する作業には、もちろん遠隔地通商の掌握、つまりアメリカ大陸およびアジアの掌握も含まれていたのである。〔ヨーロッパの通商〕競争のごく小ぶりの担い手であるネーデルラントも、遅ればせに手を出してみたが、アメリカ大陸はついにすり抜けてしまった。しかし、極東の舞台には、つまり胡椒・香料・麻薬・真珠・絹の王国には、ネーデルラント人は大挙して入り込んでいき、その主要な分け前をわがものにすることができた。彼らはそこで、ついに世界支配権を獲得することができた〔cf. Braudel〕*〔 〕は引用者補足。
アジアへの進出が展開・達成された文脈を検討してみよう。
1580年にエスパーニャがポルトゥガルを併合し、リスボン――香料受け入れ港――へのユトレヒト同盟船舶の寄航がむずかしくなると、イベリア半島を経由しない経路、つまり直接アジアから香料を獲得する仕組みが必要になった。ネーデルラントは東南アジアとの貿易経路を開拓する必要に迫られた。1585年、アントウェルペンが破壊されエスパーニャに降伏すると、ヨーロッパ世界貿易の中心は決定的にアムステルダムに移った。貴金属と同様なくらいに高価な香料・胡椒の取引きの中心地も、アムステルダムに移ることになった。こうした局面で独自の香料・胡椒をアジアから調達する経路を掌握すれば、世界経済での優位は磐石なものになろうというものだった。
ユトレヒト同盟諸州の商業資本と支配階級は、ヨーロッパ世界貿易での最優位を獲得しようとして独特の計画を打ち立てた。ここで、ヘゲモニー企図とは、世界経済における最優位を獲得するための戦略や行動を意味する。
ところで、ネーデルラントがアジアに浸透しようとした16世紀末から17世紀初頭までには、ヨーロッパ各地の商業資本グループは、それまでよりもはるかに強固に結集したブロックを形成して競争し合うようになっていた。北西ヨーロッパ諸地域では、それぞれに域内商人団体の世界市場での活動を政治的に統合し調整する機能を果たす制度がつくられていった。その典型が、イングランドやネーデルラントの東インド会社というような新たな特許会社だった。
特許会社は貿易を目的としていたが、何よりも貿易拠点の獲得のための軍事組織=軍事装置だった。
それらの会社は、世界市場で活動する自国の冒険的企業家たち(資本諸分派)を活動地域ごと――西インドや東インド、東地中海、東欧・ロシア方面などごと――に政治的に結集させ、統一的な方針や共同利害によってコントロールしようとする特殊な権力装置であった。だが、その試みは始まったばかりで、中央政府の統制がその運営にまでおよんではいなかったようだ。いや、そもそも中央政府自体がまとまりを欠いていた時代だったのだ。
1602年、連合東インド会社 Vereeinigde Oostindische Compagnie (VOC)が創設された。ユトレヒト同盟諸州の総評議会、ホラント州評議会・総督など、支配階級のリーダーたちが指導した戦略にもとづいていた。この会社は、それ以前からあったいくつかの会社を単一団体に統合したもので、それ自体独自の巨大な政治的・経済的・軍事的権力を備えていた。これによって、個々の会社・団体ごとにバラバラ、乱脈におこなわれていた航海事業が、《単一の政策、単一の意思、単一の指導》〔cf. Braudel〕によって組織されるようになっていった。
それまでは、それぞれの会社ごとに多数の船団がそれぞれ単独で出航し、権益の獲得をめぐって競争し合っていたのだった。VOCは、連邦共和国の商人どうしの破滅的な競争を抑制し、アジアで香料や香料を獲得する大規模な事業を共同して組織し運営するとともに、それを域外の競争相手から政治的・軍事的に防衛するという役割をもっていた。当然、東南アジアでの貿易拠点・植民地の創出という役割も帯びていた。もとよりアジア方面で、エスパーニャ・ポルトゥガル連合に対抗する政治的・経済的手段としても期待されていた。
このような独自の権力をもち利益の大きな事業を営む経営体として、VOCは投機目当ての投資家だけでなく、多数の小投資家に安定した投資先を提供する機能をもっていた。つまり、資本の集中・集積を誘導する装置でもあった。こうして、VOCは、なによりも貿易戦争のための組織であり、投機的な企業体、長期の投資機構、植民地化推進機構としての役割を果たしていた。
当時の基準から見て、VOCはとてつもなく強大な経営体で、1602年の出発時における650万フローリンという資本保有高はイングランドの東インド会社の10倍以上だった――しかもイングランド東インド会社の最大の出資者=株主でもあった。ブローデルの推計では、1691年の外洋航海用の大型商用船舶の保有数は少なくとも100隻を超えていたようだ〔cf. Braudel〕。会社単独でも、当時のヨーロッパで最強の独立国家としても通用するくらいの経済的・政治的・軍事的資源を独占していたのだ。
ネーデルラント商業資本は、航路を確保して東南アジアの香料・胡椒の市場または生産地に割り込み、そして恒常的な取引き関係を築かなければならなかった。冒険的商人集団によって、大西洋を南進しアフリカ南端を回ってインド洋を横断し、スマトラやスンダ諸島までいたる航路の開拓が企図された。はじめのうちは、ポルトゥガルと正面から敵対せずに、おずおずと通商拠点に入り込んでいく作戦をとったようだ。だが、東南・東アジア地域で貿易拠点を開拓・獲得していけば、行く手を阻む障害物を取り除く必要からも、またポルトゥガルが軍事的に敵対するエスパーニャ陣営に属したことからも、早晩、ポルトゥガルとの闘争は避けられなかった。
1605年、VOCはモルッカ諸島でポルトゥガル軍のアンボイナ要塞を奪取し、この地域で最初の堅固な拠点とした。1610年には、マラッカ海峡でエスパーニャ船舶を駆逐して、テルナテを奪取した。1609年にエスパーニャ王と結んだ休戦協定でヨーロッパでは交戦を避けていたが、アジアではユトレヒト同盟(VOC)は攻撃的な政策を進めた。そして、貿易上きわめて魅力的な――胡椒や香料、木綿織布や陶器、宝石、阿片などを産出する――アジアでは、利得の機会に群がるイングランド人と、そしてトルコ人、アルメニア人、ジャワ人、中国人、ベンガル人、アラブ人、ペルシャ人など、活発なアジア商人の大群とも戦うことになった〔cf. Braudel〕。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成