マネクは自宅の中古ピアノでデビュー曲(シューマンの協奏曲)を練習していた。スザーツカのもとには、もう行くことができないからだ。
やがて、ロンドン・シンフォニーとの共演デビューのためのパンフレット=招待状が刷り上がって、マネクの手許にも割当て分が回ってきた。
マネクとしては、このデビュー・コンサートにはぜひスザーツカに来てほしかった。
けれども、面と向かって招待の挨拶はできそうもない。そこで、深夜、招待状=パンフレットに「ぜひとも来てください」と書き込んだ封書をスザーツカの部屋の扉の隙間に押し込んだ。
いよいよ当日がやって来た。
ロニーや同僚も客席にいた。ミーレフも前の列に着席した。
スザーツカは、やや遅れてやって来たが、すぐには着席しなかった。彼女もまたマネクと同様にひどく緊張していた。彼女の最高のものを注ぎこんで育成した弟子が、どのように演奏できるのか、と。
試されるのはマネクだけではない。スザーツカ自身も試練に直面していると感じていた。
ステイジでは、ロンドン・シンフォニー単独の演奏曲目が終わって、最後の演目となった。
マネクのピアノによるシューマンの協奏曲の番となった。さすがの天才児も、ものすごい重圧感に圧倒されていた。それでも、滑り出しは上々だった。
一方スザーツカは、自分の心を落ち着かせるために、ホールの周囲や楽屋(準備室)を歩き回っていた。そのとき、50年近く前の、自身のデビューの場面が脳裏によみがえった。
プレッシャーに負けて、楽曲の一部(何小節か)を飛ばしてしまったのだ。それは、聴衆の側から見れば、大したミスではなかった。その年代の少女にしては素晴らしい出来だった。
だが、スザーツカ自身はすっかり動揺し、ピアノの前から逃げ出してしまった。
その後、プロの演奏家としての道を自ら投げ捨ててしまった。
今、マネクは、同じような重圧のなかでプロの演奏家への道を歩み始めようとしている。ひょっとしたら、ちょっとしたミスをするかもしれない。それが、自分のことのように怖い。…でも、人はとにかく前に進むのだ。自分で選んだ道だから。
とでも、自分の心に整理をつけたのか、スザーツカは演奏会場に戻り、やや後方の空いた席に座った。
郊外の高齢者フラットでは、コードルとエミリーがラディオの実況中継を聞いていた。
ところが、中盤に来て、プレッシャーのあまり一瞬スコアを忘れ、8小節を飛ばしてしまった。一瞬、頭のなかが空白になったようだが、がむしゃらに続きを演奏し続けた。もう何も考えずに、指で鍵盤を叩き続けた。
百戦錬磨の指揮者と楽団員たちは、きわめて自然に飛ばされた部分を穴埋めして、何事もなかったかのように次の部分に巧みにつなげた。
何も考えない、必死の演奏だった。その分、すごい迫力だった。
だが、そのミスに気づいたものは、オーケストラのメンバーを除けば、ほんのわずかで、観客席ではミーレフとスザーツカ、そして数人の専門家だけだった。ほとんど聴衆は、演奏の迫力=訴求力に圧倒されていた。
演奏が終わると、マネクは挨拶もそこそこに、楽屋に駆け戻ってしまった。ところが、会場内を圧するほどの拍手、そしてアンコールを求める拍手の音は、彼の耳には届かなかった。
その姿を楽団員と指揮者は訝しがった。15歳の少年としては、超一流のオーケストラを向こうに回して、迫力満点の旋律を奏でたマネクの演奏は、飛び抜けた大成功だといえるのに、と。
そこで、指揮者と団員たちは楽屋に駆けつけて、マネクをステイジに連れ戻した。
「アンコールの拍手に応えなければいけない」と。
公演終了後、マネクは1人、楽屋で落ち込んでいた。悔やんでいた。
そこにスザーツカがやって来た。
「あれくらいのミスが何よ。ほとんどの人はまったく気づかないわ。さあ、元気出して!」
少し、落ち着いたマネクに向かってスザーツカは続けた。
「さあ、今夜からまた練習、練習よ。デビューのお祝いも兼ねてね」
と言い置いて、彼女は帰っていった。
このとき彼女は、かつてのトラウマを克服することができたに違いない。