第4章 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折
この章の目次
キリスト教王権の形成過程としてレコンキスタを考察してみよう。
イベリア半島北部では西ゴート王国崩壊後、カンタブリア山脈やピレネー山脈沿いにイスラム勢力への抵抗拠点が築かれた。ガリーシア、カンタブリア、カタルーニャはイスラム支配圏の辺境をなし、従来から軍事的・政治的自立性を保持していたヴァスク人やアストゥーリアス人、カンタンブリア人、ヒスパニア人が独自に、あるいはフランクの君侯たちと連携しながら諸侯国を形成し、レコンキスタ運動を展開していった。レコンキスタは、入植・開発運動である再植民 repoblacion と不可分だった。征服後、所有者のいない耕地や荒蕪地を入植者が占有した。こうした入植者を母体として、フロンティアには少数の大土地所有者と小規模な土地を所有する自由農民が生まれた〔cf. 関〕。
カンタブリア地方では722年のイスラム軍に対する戦勝を機に、アストゥーリアス王国が成立した。ヴァスク(バスコ)地方では824年、フランク軍を破ったヴァスク人がナヴァール(ナバーラ)王国を樹立した。アストゥーリアス王国は征服活動を進めて、8世紀後半から9世紀中頃にかけてガリーシア、レオン地方を統合した。さらに10世紀初頭までにはドゥエロ河流域まで支配を広げ、東部辺境にカスティーリャ伯領を設け、首府をレオンに定めた。こうして、アストゥーリアス・イ・レオン王国が成立した。カスティーリャ伯領では、レコンキスタによって生まれた多数の自由小土地所有者が君侯に直属し、軍役や課税の負担義務を負った。
10世紀末から11世紀初頭には、アル・マンスールの侵攻と王位継承争いでアストゥーリアス=レオン王国は混乱に陥った。この危機に乗じてナバーラ王国のサンチョ3世は、11世紀前半にカスティーリャ伯領、アラゴン伯領を併合し、アストゥーリアス=レオン王国に支配をおよぼし、さらにピレネーを越えてガスコーニュ地方にも宗主権を拡大した。境界のあいまいな中世フランク王国において、ナバーラ王権は有力君侯として振る舞った。そして、その後も何世紀にもわたって、ナバーラ(ナヴァール)はフランス王国から有力な辺境領としての位置づけを与えられていた。
王の死後、王国の支配圏域はナバーラ王国、カスティーリャ・イ・レオン王国、アラゴン王国に分割された〔cf. 関〕。半島西部では、ポルトゥガル伯がレコンキスタをつうじて支配圏域を拡大しながら自立的な君侯権力を築き上げていった。
カタルーニャ地方では、フランク王権が8世紀末にイスラム勢力を駆逐してヘローナ、セルダーニャ、ウルヘルを占領し、9世紀はじめにヒスパニア人がバルセローナを攻略した。こうして、この地方にはバルセローナ伯、ウルヘル伯、セルダーニャ伯などの諸侯が並び立ち、フランク王権に服属するヒスパニア辺境領としてのカタローニュを形成した。
とはいえ、ここでも開墾や農村形成が進み、伯権力が確立するにつれて、これらの伯領は自立化していき、カペー王朝の宗主権を名目上受け入れながらも、伯位を世襲化していった。やがて11世紀中葉にはバルセローナ伯がカタルーニャ地方での軍事的・政治的優位を固め、ウルヘル、アンプリアス、セルダーニャ、パリャールスの諸伯を臣従させるようになった〔cf. 関〕。こうして、バルセローナ伯領カタルーニャは独自の統治圏域(王国)を形成するようになった。カタルーニャの諸都市は、地中海やギュイエンヌ、ラングドック、プロヴァンスなどの諸地方との強く結びついていた。
たとえば互いに隣接する2つの地方、バスコニア(ヴァスク/バスコ)とフランス南西部のガスコーニュ(ガスコニア)とは、共通の地名上の語源をもつことから知られるように、フランス南西部とエスパーニャとは古くから共通の文化圏をなしていた。これらの諸地方は、古くはともに西ゴート王国を形成し、のちにはイスラム勢力の圧迫を受けて北部に押し込められたキリスト教勢力が西フランス地方と強く結びついていて、パリを中心とするフランス王国とは別の独自の政治的圏域をなしていた。
それゆえ、フランス王権が南フランス諸地方に十分な統制をおよぼすようになる17世紀前半までは、エスパーニャと南フランス、イタリアは地中海経済圏=文化圏というまとまりのなかに位置づけた方が、歴史認識としては正確だといえる。
11世紀には、ピレネー山脈に沿ってナヴァール王国、アラゴン侯国、バルセローナ伯領は並立して西フランク(フランス)王国の南西部辺境を縁どっていた。これらの領邦の君主たちは、フランス王国西部の有力諸侯の列に加わり、レコンキスタだけでなくフランスでの勢力争い――フランス王を名乗るカペー家は事実上パリ伯という地方領主の権威しか保てなくなっていたので、諸侯は王位も視野に入れながら勢力争いを繰り広げていたから――にも参加していた。これらの家門は、フランスの王族や有力君侯と通婚関係によって結ばれてもいた。
このような背景を考えると、フランスの諸侯や騎士層が異教徒討伐=十字軍の旗を掲げてレコンキスタに馳せ参じたのも、ごく当然の事態だったということになる。⇒参考歴史地図
12世紀はじめになると、アラゴン王と連合したバルセローナ伯ラモン・ベレンゲール3世は、ギュイエンヌ、ラングドック、プロヴァンスにおよぶ南フランス一帯に勢力を広げた。バルセローナ商人も南フランスの諸都市に足場を築き上げて影響力を強めた。伯はバルセローナ商人層と同盟して、南フランスの有力諸都市を臣従させていた。
当時、プロヴァンス伯領は、フランス王権から完全に独立した勢力圏をなしていて、ピエモンテからサヴォイ西部までを支配していた。その地、北イタリアやピエモンテはまた、マルセイユの南に広がるリオン湾を挟んでバルセローナ伯領の対岸にあったことから、ヒスパニア東部とは通商的・文化的にも密接な関係にあった。
とはいえ、地方侯国や辺境王国の君主たちが自らを西フランクで覇を争う有力君侯だと考えていることは、彼らがフランス王国に属している、またはフランス王権に臣従していると考えることとまったく別のことである。むしろ、彼らは自らをフランス王権から自立した政治主体と見なしていて、それでありながら西フランクを覇権を争う場裏(舞台)と見なしているということだ。
ずっと時代を下って16世紀には、ナヴァール王アンリがユグノー戦争で混乱したフランス平原に和平をもたらすべくフランス王位を得ることになった。
さらに17世紀には、フランス王ルイ14世の孫の1人がナヴァール王となり、やがてエスパーニャ王ハプスブルク家の男系王位継承血統が絶えると、18世紀はじめにエスパーニャ王位を獲得し、フランスのブルボン王権と同盟を結んだ。すっかり没落し分裂したエスパーニャ王国ではあったが、海外に広大な植民地を領していたことから、この事態はヨーロッパ世界経済と諸国家体系の勢力地図をすっかり塗り替えかねない状況を招いた。こうして、イングランドとフランスの世界市場を舞台として1世紀以上におよぶ闘争が始まった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成
第3節
ネーデルラントの商業資本と国家
――経済的・政治的凝集とヘゲモニー