第4章 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折
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ヨーロッパ諸国家体系のなかでは、諸王権の競争における軍事的・政治的優位を獲得するためにそれぞれの王権は財政的基盤の拡大をめざした。支配地域からの収入を増やすためには、政治権力の強化、行財政装置の拡充、そして何よりも域内経済の成長促進が必要だった。
だが、エスパーニャ王権は、一方で税や賦課金による収入増大を求めたにもかかわらず、地方分立的な貴族権力の解体あるいは域内諸地方の統合、そして域内商業資本の保護育成には進まなかった。この王権は、制度的実体をもたない「帝国」の観念をエスパーニャ域内に適用し、イベリアの自立的な諸王国、海外植民地・属領の上に君臨する権威として振る舞おうとしたようだ。そして、この帝国思想はハプスブルク王朝のヨーロッパ政策にも拡大適用されることになった。だが、政治的・軍事的構造として諸国家体系が形成されてきていたヨーロッパには、そのような帝国観念は時代遅れだった。
1516年、フェルナンドが死去すると、その王女ファナとオーストリア大公フェリーペの長子カルロス(カール)がブラバントでカスティーリャとアラゴン両王国の王位継承を宣言した。カルロスはハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアンの孫だったことから、1519年にはオーストリア王位を継承した。カルロスは祖父からはオーストリア王位を受け継ぎ、やがて父亡きあと母からエスパーニャ王位を受け継ぐことになった。そのため、中世以来の法観念にしたがって、ハプスブルク家門がエスパーニャとオーストリア、フランデルン、ブルゴーニュ、地中海諸島などの領地を支配するという形になった。彼は、ブルゴーニュ公にしてオーストリア大公、ブラバント公、フランデルン伯、ホラント伯、シチリア=ナーポリ王などの地位を受け継いでいた。
これらの王国や侯国は制度的な紐帯を持たない、それぞれに分立並存する自立的な政治体をなしていた。だが、これらの全体に君臨する王権としての体裁を保ち誇示するためには、中世的な帝国思想、帝国観念に立つしかなかった。
その帝国統治政策は、各領地(王領、侯領、伯領など)の法や慣習を尊重するという、旧式な帝国観念を引きずっていた。つまりハプスブルク王室は、エスパーニャ全域で統制の取れた実効的な統治装置・行財政機構をつくりあげることには無関心でありながら、ヨーロッパ諸王権の上に立つ権力を手に入れようとしたのだ。おりよくカルロスは神聖ローマ皇帝位を手に入れて、ヨーロッパではイベリア半島、ネーデルラント、ブルゴーニュ、オーストリアとドイツ地方、イタリアと地中海におよぶ諸地域を支配し、新大陸にも広大な領土を保有した。
このことが、時代錯誤ともいうべき戦略を導いたのだろうか。帝国に君臨する地位として皇帝ほど似つかわしいものはないのだから。いずれにもせよエスパーニャは、ハプスブルク王朝の治下で泡のような膨張への道、そしてついには没落にいたる道を歩み始めた。
この帝国政策のために、王権はヨーロッパのいたるところで複雑で多方面にわたる(したがって膨大な出費をともなう)政略や戦争を推し進めようとした。しかも、アラゴンとカタルーニャの財政はすでに危機に陥っていたため、カスティーリャに過重な負担がのしかかった。負担は、免税特権に守られた貴族を素通りして都市団体・住民に転嫁された。王室財政の破綻はいずれ不可避だったが、新世界からの収奪によって得た財宝が王室財政を通過していったため、しばらく王室財政はもちこたえた。
ところでイサベルの死後、カルロスがエスパーニャ王位を継承するまでには、貴族を巻き込んだ宮廷の紛糾があった。カスティーリャの有力貴族はフェルナンド――イサベルの夫君でアラゴン王――が単独でエスパーニャ王位を戴冠することに反対し、娘のファナ――と夫君のフェリーペによる共同の王位継承――を推して戴冠させた。ところがフェリーペの死後、精神に異常をきたして統治能力を欠いたファナは王令で、それまで王権の影響力を強めるため貴族の遺産相続を規制していた法を廃止してしまった。
このため、貴族はふたたび地方的特権を回復し、私兵集団を組織するようになった。貴族の私兵集団による脅威のなかで都市も武装するようになった。こうして、エスパーニャにおける「王の平和」が揺らぎ出した。
ところで、1519年に神聖ローマ皇帝マクシミリアンが死去し、そしてオーストリア王位を獲得するや、カルロスは帝位を獲得するため、アウクスブルクのフッガー商会から巨額の融資を受けてキャンペインをおこない、競争者フランス王フランソワを押さえて皇帝に選出された。エスパーニャ王にとってもフランス王にとっても、ヨーロッパでの優位を獲得あるいは誇示するための資格として、神聖ローマ皇帝位はまばゆい輝きを放っていたようだ。その後、カルロスとフランソワがともに王室財政が破綻するまで闘争したのは、帝位争奪をめぐる個人的敵愾心がはたらいたのかもしれない。なによりもフランス王権としては、フランス王よりもはるかに強力な君主の出現を阻止したかったのだろう。
それにしても巨額の王室経費を集めるため、カルロスは――ブルゴーニュ宮廷に居続けながら――カスティーリャ王国の総評議会を召集して税・賦課の支払いを強制的に承認させた。しかも、帝位獲得のあとは、主としてフランス王との対抗関係を意識してか、ヨーロッパ全域での帝国政策に金をつぎ込みはじめた。エスパーニャでは、異国育ちの君主によって財政負担を押し付けられた階層の不満と憤りが蓄積していくことになった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成