第4章 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折
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1635年フラン王権は公式に30年戦争に参加し、エスパーニャとオーストリアに宣戦した。エスパーニャ王は王軍を派遣し、フランス南西部に襲撃を加えることになった。カスティーリャやイタリアで徴募された兵団は、いったんカタルーニャの農村や諸都市に集結・駐屯し、そこからピレネーを越えて出撃することになった。
カタルーニャの民衆は、カスティーリャ王権からフランスとの戦役のために派遣された軍隊がもたらす財政的負担と暴力にあえぐことになった。とくに農村部では、カスティーリャ人やイタリア人の傭兵部隊による横暴と掠奪に耐えかねていた。当時の軍の駐留や補給の方法の「常識」として、食糧と戦費、宿は現地調達だったのだ。ついに1640年にはバルセローナの民衆が蜂起し、副王を殺害した。今度は農民層も都市の蜂起に呼応した。鎮圧のためにカスティーリャ王権は軍を派遣して王国の統治に介入し、主要な諸都市を包囲した。
カタルーニャ政庁はカスティーリャ王権への降伏を拒否し、フランス王ルイ13世への臣従を宣言した。おりしも、フランス王軍がピレネー地方に侵攻していた。だが、来援したフランス王権の傭兵部隊も掠奪に走った。カタルーニャはエスパーニャ王軍にもフランス王軍にも蹂躙されたのだ。カタルーニャ諸都市は、すでにエスパーニャ王軍の長期にわたる包囲で消耗し、疫病も蔓延していた。ついに1652年、バルセローナがエスパーニャ王に降伏した。翌年、フェリーペ4世がカタルーニャの法と諸特権を従来どおり尊重する誓約をして、反乱は終息した〔cf. 増井〕。
ところが、フランス王軍は1659年までカタルーニャにとどまった。この年のピレネー条約でルシヨンをフランスに割譲することで、やっと戦乱が収まった。残されたのは、疲弊したカタルーニャだった。
ポルトゥガルでも1640年にブランガサ公がエスパーニャからの独立を宣言し、ネーデルラントと同盟してエスパーニャと戦いを始めた。たが、エスパーニャ王権はカタルーニャの反乱の鎮圧に気を取られていて、このときにはポルトゥガルには十分手が回らなかった。同じ頃アラゴン、アンダルシーア、ナーポリでも蜂起が起きた。
さて、1665年のフェリーペ4世の死後、幼年のカルロス2世が王位継承したが、王族および有力貴族による勢力紛争や国務会議各部局の専断――たとえばモンタルト公は国務会議を牛耳った――で宮廷は混迷した。フェリーぺの遺命によって摂政となった王妃は、生家のオーストリア王室の利害と意向に沿って幼い王(息子)を動かし、宮廷の権威をさらに衰微させてしまった。
まもなく地方では、広大な領地をもつ大貴族たち、カスティーリャのベラスコ家やアンダルシーアのエンリーケス家が王室の代理人然として振る舞うようになったという〔cf. Vincent / Stradling〕。アラゴンやカタルーニャは王権の混乱に乗じて自立化をねらった。17世紀末には事実上、マドリードの王権中央政府は消滅していた。
他方、フランスではブルボン王朝の権力が拡大し、域内の集権化を進め、イベリア方面でも強力な軍事力を動かすようになった。ヨーロッパ大陸での優位を賭けたフランス王権との戦争で、エスパーニャは敗北を続けた。1667~68年のフランデルン戦争と72~78年のネーデルラント戦争の結果、フランデルン諸都市とフランシュコンテを奪われ、プファルツ継承戦争ではカタルーニャの一部が占領されてしまった。
1700年にはついにハプスブルク家は断絶し、王位継承問題では結局、政略結婚でエスパーニャ王族に仲間入りしていたブルボン家のアンジュー公フィリップが後継者になった。だが、ヨーロッパ諸国家体系のなかで諸王権の利害対立から王位継承戦争になった〔cf. 増井〕。こうして、エスパーニャは有力な諸王権の勢力争いの主体から客体――有力王権の従属的パートナーとなったり、属領・植民地を奪われたりする――に滑り落ちてしまった。
17世紀末におけるエスパーニャという地理的規模で見ると、王権の動きは、国家形成あるいは国民的凝集の枠組みの形成という点では失敗だった。エスパーニャは、当時のヨーロッパの国土としては飛び抜けて大きいフランスと比べても、さらに大きかった。そこに1000万近くの人口が配置されていた。そもそも、当時のテクノロジーでは軍事的・政治的に統合できる面積ではなかったし、じっさい当の王権も国家的統合を考えなかった。かろうじてカスティーリャという規模で、しかも統合性がかなり低い状態で国家形成が断片的に試みられていたにすぎない。
ところが、そのカスティーリャでも、王権と結合した商業資本の権力ブロックを形成することができず、上級貴族の地方特権を切り崩して行財政の集権化を進めることはできなかった。
歴代のエスパーニャ王とその側近たちは、ヨーロッパ世界市場の形成にともなって諸国家・諸王権のあいだの競争の構造が転換したのに気づかなかった。域内の商業資本と製造業を保護育成して世界貿易での優位を確保することが、王権の財政的力量を上昇させ、膨張する軍事支出やヨーロッパ政策の費用をまかなう道だという発想にはたどりつかなかったのだ。また、王権と商業資本との結びつきが、域内の小王国や貴族の自立性を掘り崩して王権による集権化を達成していく手段になることも、経験から学び取ることがなかった。
そのため、イングランド、フランスのような重商主義的体制を築くことができなかった。つまり、域外商業資本の域内への支配力に政治的障壁を設けて、産業構造を高度化し、域内商業資本の権力を増幅して域外での利潤獲得競争を促進し、世界経済のなかで自己中心的な分業体系を組織していく道にエスパーニャが進むことができなかった。広大な海外植民地もまたイングランドやフランス、ネーデルラントに蚕食され、経済的に切り取られ、それら諸国民に従属するようになっていった。
ということは、この時代のヨーロッパでは、最優位にたったネーデルラントはいうまでもなく、イングランドとフランス(北部)がむしろ特異な構造・状況だったということだろうか。とにかく、それぞれの王や宮廷とそれを取り巻く諸階級の思想や行動様式は、彼らが主観的に選び取ったというよりも、彼らが置かれた状況と構造の産物だったというべきだろう。
だが、ひとたびイングランド革命が成功し、フランス絶対王政が確立され、それまでとはけた違いに強力で中央集権的な国家組織が形成され始め、それゆえまた世界経済での経済的・軍事的競争のありようが構造的に変動してしまうと、それらに続いて強力な国家形成をめざす者たちは、国家として生き残る道としてイングランドとネーデルラント、そしてフランスをモデルにすることになった。このことが、近代ヨーロッパの政治思想や国家理論を呪縛することになった。そのモデルが歴史や社会を認識する尺度となっていくことになったのだ。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成