第4章 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折
この章の目次
エスパーニャの帝国政策の限界を把握するためには、ポルトゥガルの併合と分離独立の過程を見ておかねばなるまい。
1479年に締結された(発効は翌年)アルカソヴァス条約でポルトゥガル王アフォンソ5世はカスティーリャ王位継承をあきらめ、カスティーリャとアラゴンとの連合を認めた。この条約でポルトゥガルは、アフリカ大陸と東回り航路を確保し、アソーレス、カーポ・ヴェルデ、マデイラの3諸島を領有することになったが、カスティーリャにはカナリア諸島を割譲することになった〔cf. Vincent / Stradling〕。イベリア方面での勢力拡張がいきづまった以上、ポルトゥガルは海外に領土を求めるしかなかった。
次王ジョアン2世は戴冠直後に評議会を召集して、専横が目にあまる貴族層に王権への忠誠を宣誓するよう求めた。そして、貴族の裁判権を縮減して王権の裁判権を拡張しようとして、反対する貴族には軍を差し向けて威圧・攻撃した。それまで宮廷や地方で威勢を振るっていた名門貴族の家門がいくつか抹殺され、所領が没収されたという。だが、レコンキスタで王国を形成したため、征服や植民、地方の秩序形成で貴族層の果たした役割は大きく、彼らが地方で王権の権威を掣肘する独自の権力を行使するという事情は、カスティーリャと変わらなかった。
1480年代末までには、王権主導で西アフリカからインドにいたる航路と貿易路の開拓に向けた冒険的計画に乗り出す体制を整えた。北アフリカから東地中海、中近東におよぶ地域を押さえて、インド洋方面との貿易を独占しているアラビア人から、莫大な利潤を生む香辛料貿易を奪い取るためには、インドへの航路を開拓しなければならなかった。
王室が派遣した探検船は、1482年にはアフリカ西岸沿いにコンゴに達した。88年にはディーアス率いる隊が喜望峰を回ってアフリカ東岸に達した。その10年後には、ヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達した。イベリアからインドにいたる航路の開拓は、ポルトゥガルに香辛料調達とアジアでの交易拠点の支配の可能性をもたらした。このインド洋航路を、ヨーロッパ諸国家体系のなかで生じた軍事革命の成果をたずさえたポルトゥガル艦隊が往来して、香辛料や奢侈品を求めて競い合うアラビア人、インド人、東南アジア人などの商人の群れに割り込んでいった。
1495年に王位を継承したマヌエルの治下では、海外進出の方式は航路の発見・開拓から征服に変わった。そののちの25年間で、インド方面に向かった船団は250を超えたという。その船内には大勢の人がつめ込まれて衛生状態が劣悪なうえに、航海には往復で1年半もかかり、しかも難破や遭難もめずらしくなかった。それでも、新領土の獲得と希少価値のある海外物産品を運搬することで、1回の航海事業の成功は莫大な富をもたらした。
船団が運んだ積荷は、アジアの香辛料・胡椒、アフリカの金だったが、15世紀末には奴隷が加わり、16世紀後半から17世紀にかけてはマデイラ諸島やサントーメ、最終的にはブラジルの砂糖が加わった。域内にもち込まれた財貨によって、多くの都市の城塞や領主の城が築かれ、装飾性豊かな修道院や塔の建築様式が発展したという〔cf. Vincent / Stradling〕。
1529年にエスパーニャとの海外領土の権益分割を取り決めたサラゴーサ条約をもとに、翌年、王ジョアン3世はブラジルの領有支配に取り組み、征服した広大な沿岸部をポルトゥガルの入植者たちに授与した。植民地との貿易は王室独占とされ、巨万の富の多くは直接に王室財政の収入となった。その収益の一部は大型船舶の開発と製造、アジアへの航海事業(交易と征服)に向けられた。
だが、王権と貴族、商業資本との関係はカスティーリャと大差なく、域内商業資本の結集は進まず、造船や航海関連の製造業(地図出版、艤装品など)を除いては工業への投資は限られていた。その結果、王室や貴族、富裕商人の支出の向けさきは外国産奢侈品のほか、美術、文芸、科学、建築、服飾などで、そのため芸術文化は著しく発展した。
首都リスボンは成長し、1557年には人口が約10万に達した。都市は例にもれず貧富の差が激しい階級社会で、人口のうち富裕階級は数%で、10%は植民地から送られてきた奴隷、そのほかは零細商人、手工業者、給仕、使用人で、その多くは繁栄の噂を聞いて農村から出てきた人々だった。そのため、農村は深刻な労働力不足になり、耕地や牧草地は荒れるにまかされた。
その結果、ポルトゥガルは深刻な食糧不足に陥り、穀物、肉などを輸入せざるをえなくなった。流入した富の一部は、こうして食糧の輸入に回された。宮廷に集まる財貨が増えるほど、農村地方の荒廃は進んだ。
さて、15世紀初頭、マヌエルはイベリアでの影響を拡大するため、カスティーリャ王家との政略的婚姻を結んだが、結局のところ、それはカスティーリャのポルトゥガルへの影響力を強めただけだった。異端審問や異教徒の域外移住などを説得または強要され、聖職者が王宮を仕切るようになったという。ついには1578年、聖職者に取り巻かれた狂信的な王セバスティアンが十字軍遠征を企て、ほぼ全員の貴族成人男子を含む1万6千の兵を率いてモロッコに向けて進軍した。
だが、エル・カサル・キビールの戦闘で壊滅的打撃を受けた〔cf. Vincent / Stradling〕。王と宮廷の取り巻き貴族がいっきに消滅したポルトゥガル王国は、統治体制が麻痺してしまった。
このとき、エスパーニャ王フェリーペ2世は王位継承に向けて、リスボンにアルバ公率いる陸軍を派遣し、サンタ・クルース公率いる艦隊にテージョ河口を封鎖させた。リスボン掌握後、フェエリーペは王宮に赴き、近郊トマールにポルトゥガル評議会を召集した。そこで、臣下となった諸身分・団体の既存の権利・権益を遵守し、評議会も含めた従来の統治体制をそのまま存続させるという宣誓をおこなった。官吏はそのまま任に残り、後任にはポルトゥガル人をあて、司法制度、通貨、軍隊も以前と同じ形で残った。
だが、フェリーペはポルトゥガル王室財政と商用・軍用の艦隊を掌握した。そして、王室の直轄支配領であるアメリカとアフリカ、アジアの広大な植民地帝国を領有した。その結果、エスパーニャ王は、当時ヨーロッパに知られていた世界の全域に領土をもつ「大帝国」を支配することになった。
莫大な王室収入と未曾有の大艦隊を保有し、地球を一巡りする「大植民地帝国」を支配するエスパーニャ王権は、ヨーロッパ諸国家体系のなかでも比類なく強大な権力と権威を手に入れたかに見えた。フェリーペはパルマ公をフランデルンに派遣してネーデルラント南部諸州の軍事的支配と統治を固め、北部ユトレヒト同盟諸州の再征服に乗り出した。
だが、エスパーニャはより広大な「帝国」とともに、より広範な敵と紛争をも抱え込んでしまった。イングランド王エリザベスは、これまでの私掠船による「非公式」の攻撃に加えて、1585年、支援部隊をネーデルラントに派遣した。ドレイクの艦隊がエスパーニャ北西部ガリーシアの港湾を襲撃し、ビーゴ市を掠奪した。イングランドとの戦争が公然化していった。
1588年のアルマーダ艦隊の敗北後、フェリーペはポルトゥガルの全港湾からイングランド船を締め出した。94年にはネーデルラント船の入港を禁止した。そのため、ポルトゥガルは重要な交易相手を失うことになった。
17世紀になると、連合東インド会社を設立したネーデルラントが東南アジアのポルトゥガルの貿易拠点を攻撃・奪取し、その地域の香辛料貿易を独占するようになった。もっとも、ポルトゥガルの海外における富の源泉は、アジアの香辛料貿易からブラジルの砂糖農園に重心が移っていたのだが。
カスティーリャ王のポルトゥガル統治は、ポルトゥガルの混迷をいくぶんか回復した。異端審問制度とイエズス会(反宗教改革)の影響力を強化し、能吏の副王を派遣して宮廷の浪費を抑え、節約した費用を地方農村の荒廃からの復興に振り向けた。耕地の復活とともに、所領経営での貴族の支配と抑圧を制限して、農民の賦課義務を軽減した。こうして、ポルトゥガルの人口減少に歯止めをかけ、ゆるやかな上昇を可能にした。
だが、次王フェリーペ3世は即位にさいしてポルトゥガル評議会を召集せず、宮廷の要職にエスパーニャ人を任命するようになった。貴族や民衆にカスティーリャ王権への不満と反発が強まった。1630年代には公然たる反乱が発生するようになった。そこに、三十年戦争をはじめとする広範な戦線での戦費を調達するために、トマール評議会での王の宣誓に反してオリバーレスが増税と兵員派遣を要求した。
おりしも、アラゴンやカタルーニャでは、やはりオリバーレスの改革に対して反乱が発生し、ポルトゥガルでも散発的な蜂起が続発していた。1640年、オリバーレスがカタルーニャでの反乱鎮圧のための資金と派兵を求めてくると、ついに大規模な反乱が勃発した。反乱派から推されたブランガサ公がポルトゥガル王位を主張して(ジョアン4世)独立を宣言した。
そのとき、マドリードの中央政府はカタルーニャの反乱の鎮圧にかかりきっていたため、ポルトゥガルには手が回らなかった。新王軍は散発的戦闘に苦もなく勝利して、独立は成功したかに見えた。だが、エスパーニャの次王フェリーペ4世は、ポルトゥガルの奪回に躍起になって国境に軍を派遣し続けた。それから30年間におよぶ戦争で、ポルトゥガル国境は無人の野と化したという。
1650年、カタルーニャの反乱が鎮圧されると、エスパーニャの侵入に備えてジョアンはイングランドのクロムウェル卿と同盟条約を結んだ。63年には、イングランド王家との政略結婚の持参金としてインドと北アフリカの領土を割譲した見返りにイングランドの援軍を得て、アメイシアールの戦闘でエスパーニャ軍の侵入を斥けた〔cf. Vincent / Stradling〕。ポルトゥガル戦役は長引き、エスパーニャの王室財政をさらに逼迫させた。ついに1665年9月、フェリーぺ4世は死去しポルトゥガル戦線から撤退することになった。68年にマリアーナ王妃はポルトゥガル王国の独立を認めた。
ポルトゥガルと同盟したイングランドは大西洋貿易による莫大な利潤だけでなく、イベリアの脇腹(リスボン沖)に艦隊を遊よくさせ、エスパーニャの大西洋航路を威嚇する戦略拠点を獲得したのだ。
その後、エスパーニャ王権の衰退でヨーロッパ諸国家体系の力関係は大きく転換し、王権どうしの敵対・同盟関係も変動することになった。イングランドは1655年にカリブ海のエスパーニャ植民地ジャマイカ島を占領していたが、70年に同盟を結んだエスパーニャから領有を承認された――1668年にフランデルンに侵攻したフランス王権がフランデルンを併合するのを阻止するために、今度はイングランドがエスパーニャを支援することになったのだ。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成