映画では描かれていないのだが、孝夫と美智子の出会いを結婚にいたる経緯について、原作をもとにまとめておく。
原作では、孝夫は小学校を卒業する時期に、以前に故郷を離れていた父親と暮らすために東京に転居した。田舎暮らしを厭い農業に無関心だった父親は、妻が病死した直後、孝夫が小学3年生のときに祖母を故郷に残したまま東京に移住した。その後、孝夫は祖母ともに信州の寒村で暮らし続け、貧困のなかで生きるために山林作業や農作業にいそしんだ。
孝夫は「団塊の世代」の最後の年代――昭和27年頃――に生まれた。孝夫の小学生時代には、東京では急速に進展していた高度成長は、まだ信州の農村部にはおよんでいなかった。だから、東京に移り住んだ孝夫は、大都市の経済活動を目の当たりにして、相当に面食らったようだ。自分は田舎者だと痛切に自覚し、都会暮らしになじめず寡黙な少年となった。
映画のなかでは家族環境は原作と少し違っているかもしれない。というのは、孝夫の母親は宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ風邪ニモ負ケズ』という詩を写して間仕切りの襖に貼っていたようだ。その詩の写しが今でも実家に残っている。
孝夫はその母の考えや好み、生き方に影響を受けて育ったのかもしれない。孝夫の村人やおうめに対る接し方や農作業にいそしむ様子を見ると、そんな生い立ちが想い描けそうだ。
寡黙で内省的な少年は、図書館などでひたすら本を読み漁ることに喜びを見いだした。そのため、成績は優秀で、東京郊外の進学高校に合格した。高校のクラスの同級生のなかに美智子がいた。美智子は地味で実直なものを好んでいたため、田舎者を隠さず寡黙で朴訥な孝夫に惹かれたようだ。
その頃、大学から始まった学生運動や若者の反抗が高校にも拡散して、孝夫の高校でも生徒のプロテストが活発化し、討論会やら集会でまともな授業が続けられなくなった。しかし、孝夫は具体的な目標もなく「抵抗運動」を試みる同世代には違和感を感じた。孝夫は図書館通いをして本を漁った。そんな折に美智子と会話するようになった。そして、文通中心の付き合いが始まった。
高校で授業が受けられない状況が続くなかで孝夫は故郷に帰り、祖母を手伝って農作業や山仕事に励んだ。山間の農村では狭い棚田ばかりで、農機の利用はできなかった。孝夫はきつい農作業で汗まみれになり、筋肉痛に見舞われながら働いた。そんな孝夫にとって、美智子との文通が心のよりどころだった。
「反抗」の時代もいつしか収まり、高校に戻った孝夫は文学青年として大学への進学をめざした。実直で頭の良い美智子は、医者の道をめざして勉学に励んだ。ともに難関大学の希望学部に合格した。その後、二人は同棲するようになり、美智子の卒業まもなく結婚した。
医師となった美智子は大学病院に勤務し、課題指揮と使命感に駆られるように精励し、やがて最先端の臨床医療(悪性腫瘍や癌の治療)では世界でトップクラスと評価される医学者となった。一方、孝夫は文学の新人賞を取っものの、その後は見るべき作品を出版することができないままでいた。生活費は高給取りの美智子が稼ぎ、売れない作家の孝夫は料理や家事を担当することになった。
ところが激務がたたり美智子はひどい疲労状態が続いて流産し、まもなく原因不明のパニック障害に陥り、出勤もままならなくなった。出勤途中の駅の雑踏のなかで、ひどい精神的圧迫感から恐慌をきたしてしゃがみ込んだまま立てなくなるのだ。美智子はそんな状態が3年間も続いたあるとき、孝夫の故郷の谷中村の診療所の非常勤医師のポストの打診があって、美智子の療養のためにも、渡りに船とばかりにその村に移住することになった。こうして2人は再出発の道を探ることになった。
飯山市の千曲川 阿弥陀堂がある場所は、左手の尾根を越えた山腹斜面
美智子は閑寂な山村暮らしに期待を抱いていたものの、診療所での仕事に少なからず不安を抱いていた。そのため、歓迎会の帰り道で美智子は久しぶりに強い圧迫感に襲われたが、どうにか自分で抑え込むことができた。
谷中村に移住してからも、食事作りや家事は主に孝夫の担当だった。孝夫は美智子の負担をできるだけ少なくして勤務の環境を整えようとした。勤務が始まると、彼女は診療所までの行き帰り2キロメートルほどの野草や樹木に取り巻かれた山道を歩くことで、気分をほぐして精神の安定を保つことにした。
そんな努力が実り、また素朴で穏やかな村人たちとの交流のなかで、美智子は少しずつ医師としての自信を取り戻していくことになる。