幸田の死に立ち会った美智子だったが、東京の病院で多くの死を看取った頃とは違う心境にあった。というのも、美智子は医師として立ち直っていたからだ。いや、半年以上にわたって奥信濃の村里で暮らし、非常勤の診療所勤務で多くの人びとと出会い、村人たちの語る言葉を親身になって聴き取り、交流するなかで変わったのだ。
美智子は、阿弥陀堂を離れることもなくたった独りで暮らすおうめの生き方を見守り、病床で悪性腫瘍と必死に闘う若い小百合の治療に懸命に取り組んだ。
そして、自然体の姿を崩すことなく間近に迫る死に向き合い、毅然と生きる幸田重長の暮らしぶりを距離をおいて見守った。幸田老人は、末期癌の患者として医師の診療や投薬を受けることをあっけらかんと拒んだ。その姿勢を見て、美智子は医療の専門家として、人生の最後の時間をそのように過ごそうという選択もあるのだと素直に受け入れてきた。
幸田老人は、残されたわずかな時間を妻とともに過ごすために必要な物以外のすべてを捨て去って、慎ましく端然と構えていた。膨大な著書はすべて村の学校図書館に寄贈し、剣の舞用の日本刀は孝夫に委ねた。
幸田は孝夫と美智子に何事につけても「姿こそはヒトの心を映すもので、最も大切なもの」だという想いを伝えた。
晩秋、錦繍に取り巻かれた飯山の風景
腫瘍摘出手術を施した小百合の予後経過を観察し、元気に生活するおうめの健康状態を見守り、しだいに衰弱していく幸田重長を見つめながらも、美智子は孝夫とともに奥信濃の里山の深まりゆく秋を楽しんだ。棚田のなかや森のなかを歩き、紅葉を眺めた。
晩秋、阿弥陀堂近くの野に立つ石仏
小百合が無事退院してからしばらくたった秋の宵、村の助役が孝夫と美智子の家を訪れた。懸命の治療で娘の命を救ってくれた医師としての美智子にお礼をするためだったが、もうひとつ目的があった。
助役は美智子に深く頭を下げたあとで、村の保育園の建物に間借りするように併設されていた診療所を独立させるために村立診療所の新設計画を含む予算案が村議会で採択された旨を告げ、診療所完成後には常勤の医師として勤務してほしいと頼み込んだ。
「前向きに検討させていただきます」というのが美智子の返答。これは「官僚答弁」としての「前向き検討」ではなく、受諾を意味するものだった。そして付け加えた。
「診療所の新設に際しては、村人たちが診療施設にどのような要望をもっているかをきちんと聞き取って計画を進めてほしい」と。
「それでは、先生には診療所の設計段階から参加していただくということでよろしいでしょうか」と助役。
「もちろん設計には参加します。完成予定はいつ頃ですか」
「来年秋の竣工を予定しております。毎日診察していただくのはそのときからで結構です。
いやあよかった、村長も喜びます。じつは私でだめな場合は、村長がうかがう予定で村役場に待機しておりますので・・・」と助役は説得の態勢を正直に打ち明け、安心した様子で帰っていった。
明快な言葉で決意を示した美智子を誇らしげに見つめながら、孝夫が問うた。
「やるのかい」
「望まれてやるのが女ってもんよ!」と美智子は弾むような声で答えた。
秋がいよいよ深まり、村里が錦繍に取り巻かれる頃だった。