一方孝夫はある日、小学校の時の恩師、幸田重長が胃癌に冒されながらも潔く死期を迎えようとしていることを知る。幸田老人は、近くの神社で毎冬奉納される「剣の舞」を孝夫に伝授・指導した師匠でもあった。
孝夫は独りで恩師を訪ねこの村に帰って来たことを報告した。
以前、孝夫が新人賞を取ったとき、
「賞などというものには大した意味がないうえに、謙虚さを失わせるからむしろ有害かもしれない。
自分らしくない身の丈を越えた自負や意図をもって創作するよりも、自分の心のなかに自然にわき起こる想いを描きなさい」
と戒めをこめた祝いを受けたものだった。
その日、新人賞の後、物書きとしての創作の成果が芳しくない悩みを孝夫が告げると、それでも自分らしさや自然体を崩すな」と励まされた。
数日後、恩師の容体を心配して、孝夫と美智子は幸田夫婦が暮らす住居を訪ねた。その住居は庵風で、飯山市街から上った小高い丘の上にあって、周囲を樹林に囲まれていた。
この住居は飯山市の禅寺、正受庵をモデルとしたもので、幸田老人宅でのシーンのいくつかは実際に正受庵で撮影されたと思われる。
幸田は末期の胃癌に冒されて死期がまもなくやって来ることを知っているが、終末医療を拒み痛みを抑える投薬を受けることもなく自宅で自分らしく死を迎えよう――生き抜こう――と決めている。妻と二人きりで最後の時を過ごそうというのだ。
その日、幸田老人は習字をしていた。良寛禅師がものした「天上大風」の書を練習していた。上手に見えるように書くというよりも、気持ちを込めて自然な風に書くことを目ざしているようだ。
この語の意味は、「子どもたちが上げている凧のように強い風を受けて天高く昇れ」とか「厳しい寒風は、凧を空高く舞い上がらせるものだ」という意味らしい。
幸田老人は孝夫夫妻に「何ごとも姿こそが最も大事なのだ。姿は心を映すのだ」と語る。彼は死期が迫っても、妻や近所の人たちの前でこれまで通りの生活を続け、毅然と生きる姿を見せている。だが、末期癌の痛みに耐え、日々迫る死に対する覚悟を新たにしているのだろう。
大量にあった蔵書も村にすべて寄贈し、家のなかには電化製品や装飾品もない。まさに赤貧洗うがごとき禅庵のような趣だ。
そんな幸田の姿を見ている妻ヨネも覚悟を決めてはいるものの、やがて夫を失うことになる悲しみに必死に耐えている。
幸田は戦前、日本政府の中国北東部侵略政策にもとづいた満蒙開拓民――あるいはそういう開拓村の学校教員――として妻と2人で彼の地に赴いたことがある。信州の農村からは、日本政府の「満蒙開拓」政策にしたがって中国北東部に赴いた農家の次三男たちが数多くいた。
敗戦とともに幸田はソ連軍の捕虜となりシベリアでの長い抑留生活を余儀なくされた。敗戦時の混乱のなかで2人はたった一人の娘を失い、妻はかろうじてただ一人帰国できた。しかし、幸田自身は10年近い抑留生活を送ることになり、ヨネは11年近くも孤独を耐えなければならなかった。
幸田夫婦は原作には登場しない。映画独自の人物設定だ。幸田夫婦が戦前の日本政府の満蒙開拓――中国北東部への侵略・植民地化――政策の結果、大変に悲惨な目にあったという体験は、この映画ではかなり重要な位置づけになっているようだ。
このほか、孝夫が村の広報を近隣地区の家々に配って回るシーンでも、老婆から「大陸からの引き揚げ」や戦後の厳しい体験を聞き出す場面がある。
あの孤独も辛かったが、まもなく夫は逝くことになり、ふたたび長い孤独が待っている――ヨネはその悲しみを待つしかないのだ。
幸田は毅然とした姿を保ったまま、妻と二人きりで最後の時を過ごそうというのだ。ヨネはそんな衰弱していく夫をかいがいしく見守っているが、やがて夫がいない寂しい生活がやって来ることを覚悟する毎日のようだ。ヨネは帰り際の美智子に気持ちを漏らした。
「もうすぐ、また独りになってしまうんだわ・・・」
幸田老人と彼に寄り添う妻のヨネの生きる姿に、深い感銘を受ける孝夫と美智子だった。
しばらくして幸田老人は「剣の舞」に使う日本刀を孝夫に譲った。
「これで剣の舞を舞ってくれ」と孝夫に伝え、「これで思い残すことはなくなった」と呟いたが、そのことばはヨネの心に重く響いたようだ。