小百合の容態が峠を越えてからも美智子は、孝夫に車で病院への送り迎えしてもらいながら、治療を続けた。そんなある日の帰り道の車のなかで、孝夫は医師としての自信を回復しつつある美智子を見て言った。
「あんた、いいお婆さんになるとおもうよ」
「目標はおうめさんよね」と美智子は返答した。
あんなふうに年老いたい・・・長生きして年老いても、自分らしく、そしておのれの分を守りながら、自立した精神で矍鑠として生きる姿は、美智子にとって人生の目標となっているのだ。
盂蘭盆でご先祖様の霊を迎え送る村びとの行事を眺めたせいか、美智子は仏壇を買うと言いだした。
「いつか自分たち夫婦も『ご先祖様』になりたい」と。自分たちが逝った後になっても、その霊を子孫たちから盂蘭盆に迎えられるようになりたいということだ。それはまた、高齢出産になるが何とか子どもをもうけたい――母になりたい――という願望をのぞかせたのかもしれない。
翌日、孝夫は阿弥陀堂のおうめに会いにいった。小百合が危険な状態を脱し、快方に向かっていることを伝えるためだ。そのときおうめは阿弥陀様に向かって一心に祈っていた。孝夫の知らせを聞いたおうめは、阿弥陀様に心からのお礼を言って何度も念仏を唱えた。
小百合が退院した日に発行された村の広報誌のには、おうめの記事が載っていた。孝夫が録音したおうめの話を小百合が病床で編集したものだ。
《阿弥陀堂だより》
食って寝て耕して、それ以外のときは念仏を唱えています。念仏を唱えれば大往生ができるからではなく、唱えずにはいられないから唱えるのです。
もっと若かった頃はこれも役目と割り切って唱えていたのですが、最近では念仏を唱えない一日は考えられなくなりました。子どもの頃に聞いた子守唄のように、念仏が身体のなかにすっぽり入ってきます。
さて、小百合が病気と闘っているあいだにも季節は流れていく。村とその周りの景色は、日に日に秋の気配を深めていく。
そんな季節の推移を物語る秀逸なシークェンスが流れる。陽がすっかり西の空に傾いた頃合い、美智子と孝夫が山の尾根の森に囲まれた谷間の棚田を散策する場面だ。
棚田の稲の穂がすっかり実ってきた。そこに夕日が射し込み、稲の穂がにぶく輝き、夕靄が出始めている。棚田の上を舞い飛ぶトンボの群れ。その無数の翅が大きく傾いた陽射しを受けて眩しく輝き、きらめく。
稲刈りの時季がやってきた。孝夫は近所の農家を手伝って、棚田で稲刈りをしている。稲を手でひとまとめの束になるようにして鎌で刈り取るのだ。狭い棚田では機械を使うことが難しいからだ。時間がかかるから、農家では昼飯に握り飯やお菜、お茶を田圃に持参する。
棚田では家族や手伝う近所の人びとと一緒に畔でお昼を食べる。今の日本の農村では稲作作業がほとんど機械化されていて、こんな昔懐かしい鎌での手作業の稲刈り風景は、残念ながら、棚田ぐらいにしか残されていない。
飯山市関沢の小菅神社里宮の神楽殿
小菅神社の石段
この石段も雪中の「剣の舞」シーンで登場した
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稲刈りの時季が終わると秋祭りがやって来る。
秋祭りの夜、村の神社の神楽殿では、神楽鈴の舞いが奉納されている。横笛と小太鼓の音に合わせて水干・千早・緋袴装束の少女たちが神楽鈴を静かに振りながら神楽殿を巡り歩く舞いで、多数の村人たちが詰めかけて見守っている。
撮影の舞台は、飯山市関沢の小菅神社里宮の神楽殿だ。このような舞いが実際にあるのかどうかは知らないが、戸隠神社と並ぶ由緒をもつ古い修験場だった小菅神社に、このような奥ゆかしい神事が残されていても不思議はない。
舞の祭囃子の音色は、神社がある小高い尾根から遠く村全体に響き渡っていく。
秋祭りの奉納舞の舞台となった小菅神社里宮は、阿弥陀堂がある福島瑞穂地区の北にそびえる小菅山の山麓にある。ここは、古代から神仏習合の修験の場として、神社と多数の堂塔伽藍を備えた寺院塔頭からなる小管山元隆寺の広大な寺領をなしていた。
しかし、明治政府の神仏分離・廃仏毀釈の政策で元隆寺は解体され、その後はすっかり衰退してしまった。だが、小管山山頂近くの神社の奥社まで杉並木と深い森に取り巻かれた参道が今でも整備され残されている。
⇒元隆寺跡に関する記事