巨大な戦艦による決戦の思想は、海軍戦史というよりも19世紀末のブリテン外交の舞台に登場してきた。ヴィクトリア(女王)期の栄光の残滓ともいうべき外交イデオロギーで、艦隊どうしの決戦でその有効性が確認されたわけではない。
世界経済と海洋権力で圧倒的な優位をすでに獲得しているブリテンが、通商開放を拒否したり、高い保護関税障壁を設けた後発・幼弱な諸国に対して著しく不利な門戸開放や外交関係を強いるための手段として編み出した思想だった。実践よりも心理的ないし政治的な威嚇効果(脅し)のための手段だった。
すなわち、「砲艦外交( the gunboat diplomacy )」から始まり、その後エスカレイトして大艦巨砲主義にまでバブリーに膨張増殖していった発想なのだ。
ブリテンの後を追いかけその覇権に挑戦しようとする諸国家もまた、そのイデオロギーに追随したのだった。つまりは、海洋権力の世界で「流行のモード」になった。
その後、その艦隊決戦の思想は、日露戦争でずいぶん矮小化され時代遅れとなった形で「実験」」された。
大艦巨砲主義が本格的に展開されるのは1930年代末以降だが、しかしそのときには、すでに時代遅れになっていた。
大口径主砲の射程距離の拡大は、より広範囲で正確な索敵能力を要求する。が、射程30kmを超えると、敵船影は水平線の彼方に消えてしまう。高性能のレイダーの開発と利用、航空偵察による索敵活動、さらに航空機動戦力による支援や援護が必要になる。
つまり、航空機による索敵能力と高速、広範囲の長距離爆撃・雷撃の優劣が海戦の勝敗を決するようになっていったのだ。必然といえば必然だ。
やがて、空母主力の航空機動艦隊が創設されると、それが大型戦艦に取って代わって、海洋戦力、とくに攻撃力と防御力の中心となるのは不可避だった。
しかし、権力組織=国家装置としての海軍・艦隊は、国内的にも対外的にも見栄えというか威嚇効果(心理的抑止力)のために巨大戦艦を建造していった。
しかも、主砲の口径が大きくなるほど、砲弾発射のさいの物理的衝撃が砲そのものや周囲の艦設備におよぼす影響=破壊力も大きくなる。
巨大な砲弾を高速で遠くに飛ばすために使用する火薬の量とその爆発による高温、衝撃波と振動が、主砲そのものを変形させ、レイダーや艦内の電磁装置や電気通信装置に悪影響をおよぼす。
第一撃が命中しなければ、高温と衝撃で諸装置の歪みがひどくなる一方の主砲の照準と命中精度はどんどん落ちていく。
ビスマルクも、主砲の威力による自家撞着に陥っていた。
デンマーク海峡で、追いすがるブリテンの巡洋艦を威嚇するために前部の主砲で攻撃を仕かけたときに、その衝撃で艦橋の前部の主レイダー(低い位置に設置されていた)が壊れてしまった。
こうして、この戦艦は、前方の索敵能力を失ってしまった。主砲の砲撃を支えるシステムの故障の原因は、ほかならぬ主砲そのものにあったのだ。
これは、戦艦大和・武蔵でも指摘された、根本的な欠陥だった。この2艦はレイダーは主艦橋の高い位置にあったので、その面での障害はなかったが、第一撃以降の射撃精度に大きな問題が生じたらしい。少なくとももう一回り小さな口径の主砲を搭載すべきだった。
ライフル砲の避けられないメカニカル=フィジカルな限界だ。
そんな巨大な主砲塔をつくるのに、大型駆逐艦1隻分の鋼鉄や金属が必要だったという。資源の浪費の最たるものだった。
同じ時期にアメリカではアイオワ級の超弩級戦艦を建造した。戦艦大和・武蔵よりも一回り長い船体だが主砲の口径は一回り小さくした。それだけ、見栄えよりも射撃の正確性や安全性のテクノロジーを優先したためだろう。
主砲の発射にともなう熱と衝撃を吸収したり逃がしたりする設計になっていて、射撃性能は大和や武蔵よりもずっと高かったようだ。
さて、ビスマルクはその巨体を高速で動かすと、燃料の消費量がきわめて大きくなり、航続距離はかなり短くなるので、補給基地に帰還するか、燃料補給船とのコンタクトが必要になる。しかし、大西洋でのブリテン海軍との力関係から見て、ドイツの補給船は護衛を受けたとしても大西洋の奥深くまでは到達するのは困難だった。
となれば、ビスマルクの通商破壊は、ヨーロッパ側(アイアランドの西方)の沖合いで待ち伏せ攻撃によるものに限定される。当然、ブリテン艦隊の索敵・警戒網のなかにいずれ捕捉されることになる。
とすれば、出撃を続ければ、遅かれ早かれ、いずれ捕捉・撃破される宿命にあったといえる。