ビスマルクは、超弩級の戦艦で、全長251メートル、最大幅36メートル。喫水線上下の舷側の帯状装甲は320ミリメートル。大口径の主砲は381ミリメートルで、2連の主砲塔が艦橋の全部に2基、後部に2基で、計8門。
容積は排水量で、標準装備状態で4万1700トン、完全装備の重量は5万トンを超えるという。標準装備での速力は、毎時約31ノットで、この規模の戦艦としてはすばらしく速い。この速力を実現するのは、合計15万馬力となる3基のエンジン。
艦の全体を高性能の鋼鉄の装甲が覆い、きわめて高い防御能力、被弾性能を誇る上に、船体損傷・破壊による横転や転覆を防ぐ復元構造や隔壁の仕組みは、当時としては比類のないものだったという。
その設計構想の開始は、1920年代から始まっていて、具体化したのが30年代のはじめ。
ところが、その間におこなわれた欧米列強での戦闘艦艇の開発・設計・建造・就役ならびに海戦の経験から、設計構想は何度も壁にぶつかり、練り直しを迫られた。
しかし、就役、就航の目標期限に間に合わせなければならないために、相対立する設計構造をつなぎ合わせた「つぎはぎの設計」だった。
もっとも、これは、ブリテン、フランス、合州国、日本、イタリアなど、ほとんど列強諸国家の軍艦と艦隊についていえることだが。
とはいえ、当時ヨーロッパ随一の大口径主砲は、バルト海や北海やスカンディナヴィア、ユートラント半島、北氷洋などの比較的狭隘な海洋での海戦向けに開発されたものだった。つまり、海戦の相手はブリテン海軍、しかも戦闘海域はバルト海からブリテン諸島、アイスランドなどの周域の北海、そして、せいぜいイベリア半島沖合いまでの海上を想定していた。
それゆえ、381ミリメートル主砲は、射程距離が大型戦艦としてはかなり小さかった。射撃精度から見て、有効射程はせぜい23キロメートル前後くらいだという。これでは、当時の大型戦艦の第一の戦略的・戦術的目的であった広大な外洋における「通商破壊( the cmmerce raiding )」には、不向きだった。
ところが、参謀部から与えられたビスマルクの最重要の軍事的課題は、この通商破壊だった。外洋での戦略・戦術に関して、この艦の設計者は知識と研究、経験が大いに不足していたからだと思われる。
もっとも、ブリテン国家によって推進されていた「大鑑巨砲主義( the big gunboat policy )」は、すでに1930年代末には破綻していた。
航空母艦と艦載機群による索敵・攻撃を主体とする航空機動艦隊が、海洋軍事力の新たな中心になろうとしていた。
そして、戦艦ビスマルクとブリテン海軍との闘争で勝敗を分けたのは、まさに艦隊の航空機動力の差だった。ブリテンの空母艦載機の活用こそが、偶然に発生したわずかなチャンスを自らの優位に結びつけた最大の要因だった。
もっとも、19世紀末からブリテン国家が推進した「大艦巨砲主義」は専門的な艦隊戦・海戦の戦略というよりも、見かけの威力を誇示して相手を威圧する外交戦術(虚仮脅しの手段)として編み出されたものだったというべきかもしれない。
言ってみれば、艦隊戦の方法としては限りなく幻想に近かったと思われる。
というのは、ブリテン帝国が巨大戦艦の主砲に物を言わせた成功した事例は、艦隊戦に比べて外交駆け引きでの成功の事例が圧倒的に多いからだ。
ブリテンは「自由な通商外交」つまり力の差を歴然と見せつけ相手側に不利な貿易や開港、外交関係締結などを強制するために、頻繁に相手国の主要港湾都市の沖合に艦隊を差し向けた。それでも拒む相手には、港湾に戦艦の主砲の砲弾を数発浴びせれば、たいていの相手は屈服した。
そういう「成功体験」が大艦巨砲主義を増長させて、20世紀初頭には戦艦ドレッドノート(全長161メートル)を建造した。これが幻想の頂点だった。しかし、その後、ブリテンやそのライヴァル諸国家はさらに巨大な戦艦の開発・建造競争を繰り広げた。
とはいえ、超弩級戦艦を実戦に投入して成功した国家はほとんどなかったようだ。かろうじて、アメリカ合衆国がイメイジ戦略として成功の間際まで漕ぎつけたいえるかもしれない。
というのも、巨大戦艦の維持運用にはとてつもなく金がかかり資源を莫大に浪費するので、国家財政を著しく圧迫し、戦艦の就航・派遣は必ず海軍力全体の展開にとって大きな足かせとなってしまうからだ。
太平洋戦争中の日本海軍でも超弩級戦艦の大和や武蔵は、作戦的にも財政的にも重荷となっていたという。フィリピンのレイテの港湾に停泊したままで実戦にはなかなか投入できず、停泊したまま動かないので、海兵たちからは「大和ホテル」(見栄えと豪華さばかりが目につく)と揶揄されていたらしい。