戦艦大和、武蔵の主砲の発射にさいしては、前部の砲塔だけの射撃でも、後部も含めて甲板から総員退避したという。超弩級戦艦ではそうするしかないという。
ものすごい破壊力がともなう爆風で、甲板にいたとすると首や四肢は引きちぎられ、あるいは内臓破裂が不可避だったからだという。だから、主および副艦橋間の高射砲や大型機関銃座は射撃手を守るために遮蔽壁で覆われている。
もちろん、その衝撃は艦橋の計測観測装置に大きな打撃や歪みを与えた。そのため、主砲は正確な射撃を持続させることはできなかった。
もっとも、大和や武蔵が就航・就役したときには、戦艦どうしの長距離射程の砲撃戦はすっかり時代遅れになっていて、両艦がこういう戦闘に本格的に参加したことはなかったという。
それに、日本の兵站補給体系の弱さからいって、これらの超弩級戦艦を持続的に海戦に投入することはできなかった。プラモデルと同じで、要するに「お飾り」「誇示」が主な役割だった。
「戦艦決戦」に備えて待機という名目で、両艦はその生涯の大半の時間を基地港での停泊(豪華な「大和ホテル」)で過ごしていた。もちろん、主砲を使った演習などはもってのほかだった。
幻想の巨艦というほかない。
第2次世界戦争末期から1970年代まで世界覇権を握っていたアメリカでさえ、アイオワ(ニュウジャージー)級超弩級戦艦――艦体は大和級よりもさらに7メートル近く長い。ただし、主砲口径は40センチメートルと一段小さくして衝撃を緩和した――を海戦に同時に投入できるのは、やっと2隻が限界だったという。
超弩級戦艦は最大で6隻あった――海軍の計画ではアイオワ級戦艦を6隻建造することになっていたが、財政逼迫で4隻にとどめ、旧型2隻を終戦まで維持した――が、残りの戦艦は基本的に戦役から外されていたようだ。せいぜい戦闘を予期しないで制海圏域で遊弋航海するか、母港での補給や補修に置かれていたようだ。
戦後はきわめて限定された戦役投入期間が過ぎると、ただちに退役させられて補修後、母港で「浮かぶ軍事博物館」とされていた。それだけ、海軍・艦隊全体に対する兵站上の負荷が大きく、長期間の就役には堪えられなかったようだ。
超弩級戦艦を就航させると、艦隊の中核である航空母艦とその護衛艦隊の展開を兵站上きわめて大きく制約・阻害するという結果になるしかなかったのだ。
ところで、アイオワ級戦艦は、設計思想は大和級ときわめてよく似ている。戦艦の艦体長の長さの限界は270メートル前後だという。これよりも大きいと、当時の技術では船体の強度が低下したうえに、敵艦隊による捕捉と攻撃が容易になり、被弾の可能性が極大化するからだという。
大和級とよく似ているが、艦橋や大砲の配置はややゆったりしていて、しかも主砲は40センチメートルに抑えてあるので、実戦配備されてからは、主砲9門すべてを真横に向けて同時に砲撃しても、艦の安定性や計測・観測機が被害を受けることがなかったという。
さて、軍備=兵器には、相手に心理的脅威を感じさせ、戦争を仕かける意図を抑止する機能が期待されている以上、すぐれて幻想や幻影イメイジを生み出す装置ともいえる。つまり、最高の兵器の目的は、それを使うような戦争を抑止することにあるようだ。
こけおどしや威嚇の機能に最も大きな期待が寄せられているようだ。したがって、勝利が確実に期待できそうな小さな局地戦などでその破壊力を見せつける必要も出てくる。
したがって、とんでもスーパー兵器を開発し配備することは避けられないのだろう。
その最たるものが核兵器体系だ。「使ったらおしまい」「使われたらおしまい」というわけで、使わないことを目的として巨額の資金と資源を注ぎ込んで開発・維持管理している。
しかし、兵器に対する国家の統制能力が綻び始め、国家をなさない個別テログループ――「国家の論理」による自己抑制がない組織――が大量殺戮兵器を入手使用する危険性が高まっている今日、核兵器はこれまでとは次元の異なる脅威となりつつある。高性能の兵器は「ダモクレスの剣」というわけだ。