特別墓地では、3人の宇宙飛行士の妻や子どもたちが、呆然とした表情で政府主催の告別式に参列していた。政権のお歴々はもとより、NASAの幹部も厳粛な面持ちを取り繕って参列していた。
そして、全国ネットのテレヴィに映るためか、演壇で持って回ったような荘重な弔辞を献呈していた。
会葬者の後ろでは、数多くの全国ネットのテレヴィ局のカメラの砲列が、この儀式を撮影していた。
ところが、葬儀がおこなわれている墓地の区画に通じる道路に、突然、スポーツセダンが走りこんできた。車のドアが開くと、ブルベイカー大佐とコールフィールド記者が飛び出し、会葬者とマスメディアの群に向かって駆け出した。彼らは低い墓石を飛び越して進む。
突発的なできごとに気づいた会衆とマスコミ取材班は、近づく2人に目を向けた。カメラの列も照準を闖入者の方に向け変えた。
ケイは、走り寄る夫の姿を目に捉えたが、とっさに反応できなかった。だが、一瞬の意識の空白を克服して、ブルベイカーだと確認すると、驚きがやって来た。驚愕の表情は次いで喜びの表情に変わった。
色を失うNASAの幹部たち。カロウェイ博士は振り向き、顔つきは唖然から愕然に。
この場面で、映画の物語は終わる。
このあとのドタバタ劇も観たかった。
取り澄まし、ふんぞり返っていた政権の高官やNASAの幹部たちが、世論やマスコミに叩かれて右往左往し、責任のなすり合いを演じ、保身に回り、ある者は自殺に追い込まれ…自分に有利な事実だけの暴露や告白…、と。
もちろん、現職大統領の再選戦略は崩壊し、任期終了直前の辞任もありうる。
けれども、この映画はそんな品のない映像を流さずに終わる。
この映画は、国家の政策や戦略として営まれる限り、どんな立派な科学技術上の成果や達成も、政治的現象であって、政権の権力の再生産に役立つメカニズムとして動くものなのだ、ということを描いている。
そして、その仕組みのなかに置かれた諸個人は、国家という権力構造のなかで要求され強制される「役割」とどう向き合うか、という問いかけをも提起している。
この「役割演じ」の要求=強制のメカニズムは、地位や特権の付与とか、給与報酬を見返りとして提示し、あるいは自分や家族の身の安全についての脅迫をもう片方の手にちらつかせることもあるらしい。
「当たり前の市民」としての良心や信仰心に重い蓋をかぶせることもあるだろう。
良識を備えた市民の価値観と権力者に命じられる役割とのあいだの板ばさみ(ディレンマ)も、背後に示されている。
物語の舞台には、カロウェイ博士のように、権力装置の走狗となって、虚偽映像の制作と送信操作を企図し、虚偽の目的のために宇宙飛行士たちや担当官たちを抱き込み、威嚇する人物も登場する。彼は、挙げ句の果てに、関係者の抹殺のために人員や資源をしゃかりきに動員する姿さえ見せる。
宇宙開発の理想に燃えていた科学者は、長い期間、政府機関に勤務し、有力な地位と権力を与えられ続けると、虚偽意識としての国家の威信と自己の価値観とを一体化・混同してしまった。
自己イメイジの肥大化あるいは国家崇拝、これが、多くの場合の人の意識の動きなのかもしれない。
これを反対側から眺めると、権力を握った政治家が自己の価値観や国家像を――それが正義だと一方的に思い込んで――政府の運営に強引に持ち込むということにもなる。現在の安倍政権のように。
古めかしくて国際的には胡散臭いと見られている国家イデオロギー(国家観)を持ち込もうとするわけだ。しかし、選挙で有権者はそこまで無際限に政策(政権運営)を委任したわけではない。
いずれ世論とのギャップが、政権を追い詰めることになるのだろう。
どこか勘違いした、そういう選択肢というか価値観で、政権はその市民に意識のもち方や役割を押し付けてくるのかもしれない。やれやれ。
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