国家は「全社会を代表する」とはいっても、それはレトリックにすぎない。実際には国家装置を構成する特殊な人間集団(さらにそれを指導する共産党指導部)が、社会と政治の支配階級として振る舞っている。そして、この集団=階級が、総体としての工業部門の生産手段の配置と運用を支配統制しているわけだ。
国家的所有とは、結局のところ、国家装置を掌握支配するひとにぎりの集団=階級によって主要な生産手段が所有・支配される制度にほかならない。
名目上、工業部門での所有権力の行使・運用の目的は、「発達した社会主義社会」の土台となる経済=工業力の建設である。そのためには、工業生産設備の拡大が必要であって、拡大再生産のための経済的剰余(剰余価値)の生産と領有が前提となる。
つまりは、生産活動を直接担う労働者階級が生み出した剰余価値を彼らには渡さずに、利潤すなわち拡大再生産の原資として国家装置が領有・集積することになる。
このこと自体は、資本家階級が剰余価値を労働者に渡さずに、利潤として領有して蓄積するメカニズムと、何ら変わるところはない。つまり、生産手段の所有の権力の発動と資本蓄積のための運用という点では、ソ連国家が資本の権力の担い手であり、資本の権力の人格化であったのだ。
違いは、個別の資本家=企業が互いに激しく競争し合う《通常の市場システム》が、そのものとしては現象・機能しないということだ。
市場システムとは、自然発生的な分業体系のもとで、個々の生産者ないしサーヴィスの提供者たちが自己の利益(の最大化)を目指して、競争し合うメカニズムであって、商品としての製品やサーヴィスが需要者によって購入され、代価の支払いを受けることではじめて社会にとって有用な経済活動であることが実証される連関を意味する。
社会総体での「需要と供給」または「ニーズと生産」とのあいだの均衡を考えるシステムはなく、個々の経営体が目先の利益を求めて好き勝手に生産・供給をおこなう。売れて代価が回収されればコストとともに利潤が回収されるし、売れなければ損失が発生し、経営は行き詰る。「儲かる」と見込める部門や商品の生産・供給に資源は集中しがちになる。
社会的分業体系は自然発生的に形成され、しかも個々の生産・販売の担い手が自己の利潤の極大化を目指して競争し合うから、市場の運動は無政府的になる。
したがって、無政府的な競争が展開されるために、周期的(循環的)に極端な過剰生産が発生して経済危機(不況)がやって来るという傾向性をもつ。ブームが起きると、儲かる商売にはより多くの資本(投資や投機)が集中して、供給過剰、在庫過剰になり、市場は過飽和状態になるからだ。
ところが、ソヴィエト社会では「国家という中央集権的な組織」によって生産手段の配置と運用を計画的に統制管理しているから、無政府的な競争は生じない、とソ連当局は主張してきた。本当にそうか?
いや間違っている。なぜか?