映画「ゴールィキーパーク」とその原作は、刑事アルカージィの捜査活動をつうじてソ連社会のありよう――の1断面――を描いている。そのソヴィエト・レジームは20年以上前に崩壊してしまった。このレジームを、ソ連当局自身も私たち(西側)の人間も「社会主義」と呼んで疑いもしなかった。だが、それは正しかったのか。
私には、資本主義的レジームの1変種、それも兵営型国家統制によって組織された資本主義にしか思えない。
この映画へのオマージュとして、ソ連のレジーム――とりわけその経済構造――について考察してみよう。
今、深刻な危機のなかで資本主義的世界システム――地球全体の――の「ありよう」が問い直されている。あるべき資本主義ではなく、〈今、現にある資本主義〉そのものが。それは現代文明の破局の危機というべきかもしれない。
今から15年ほど前、東欧の社会主義レジームに続いて、ソ連レジームが崩壊して、冷戦の終結とともに「資本主義の勝利」「レジームとしての資本主義の優越性」「永続性」が喧伝された。1970〜80年代に生じた「社会主義という理想」の消滅に続いて、醜悪な全体主義となっていたヨーロッパにおけるレジームとしての「現存の社会主義」の消滅だった。
だが、ソ連・東欧で崩れ去ったレジームは、いったい何だったのか。
この問題については、シヴィアな問いかけと検討がなされなかった。ただ、無前提に「社会主義だった」として片付けられてしまった。
では、「かつて実在したレジームとしての社会主義」とは何だったのか。
資本主義と質的に異なる、その社会の歴史的な質=構造は何か。これについては、マルクスなどの片言節句の引用や検証抜きの「ごり押し」があったが、それ自体について問題にされることはなかった。
いや、当のソ連東欧の国家当局自体、この問題を真剣に検証・検討したことはなかった。それをすれば、レジームの正統性が問われ、むしろ批判・非難されることになっただろうから。「社会主義とは何か」を真剣に問いかけていたなら、ソ連はレーニンの時代に崩壊していただろう。
西側でも、ほかのことでは、ソ連の言い分に対してことごとく反論するにもかかわらず、ソ連レジームが自らを「社会主義」と自己規定=宣言することについては、無批判・無検証に是認していた。どっち道、資本主義を否定するレジームは何であれ、敵対レジームであることには変わりなかったからか。「社会主義」を名乗ってくれた方が、イデオロギー的に対応が単純でいいと思ったからか。