それでも、「社会主義建設」のために当局はひたすら拡大再生産を追求した。そのためには、労働者=一般市民への分配よりも国家の取り分の割合を大きくしなければならない。要するに利潤率の増大をめざした。
そのためには、労働力の再生産費用――賃金給与と消費支出――を抑え込まなければならない。教育や医療をも国有化し、市民の負担を無料化した。その代わり、消費物資の分配は、市民諸個人の需要・要望に応じた自由な購買ではなく、政府が指定するところの消費財について固定された品質と量の物資の配給制度を組織した。
たしかに、医療や教育などは市民個人にとっては負担なしだった。だが、社会全体の生産と分配を分析したら、どうだろうか。労働者たちが稼ぎ出した剰余のほとんどは国家が収奪している。それに比べて、無料化した医療や教育で市民個人が受け取る利得はあまりに小さすぎはしないか。
しかも、配給やわずかに許可された購買に回される消費財は、ひどくお粗末だった。しかし、特権階級には、彼ら専用の特売マーケットが用意されていた。そのほとんどは、西側から輸入された消費財で外貨によってのみ購買できた。一般市民がそこで買い物ができるのは、国家によってよほどの褒賞にあずかったときか、外貨を保有している場合だった。つまりは、庶民にはおよそ手の届かない機会だった。
こうして、個人消費を徹底的に抑圧して、政府が戦略的に選別格付けした重化学工業の建設(特定諸部門に偏った資本蓄積)を強行するメカニズムが、ソ連の計画経済の実態だった。生産・分配・消費過程全体における資本と労働との階級敵対そのものが、こういう形態で持続的に発現・反復していく。それは、マルクシストたちが、近代・現代資本主義的社会における忌むべき資本蓄積の位相として鋭く批判した内容ではないか。
こうして、労働者たちが生産過程で生み出した富は、彼らから疎遠なよそよそしい外的な支配権力として蓄積し、彼らを押し潰そうとする抑圧メカニズムをつくり上げていく。資本の権力による生産と労働、生活全般の支配の仕組というほかない。
私は、一般市民の消費ニーズの表明発信の機会は、《政治的・市民的民主主義の関数》だと考えている。一般庶民に消費欲求の表明の自由を与える仕組みができれば、制度としての民主主義は不可避的に発展すると。
だが、こうしてでき上がったソ連の経済活動によって生み出された工業製品は、世界市場的文脈で見るとき、破格的に劣悪な品質で、国際的競争に参入することができないシロモノだった。要するに世界市場競争力がほとんどないか、著しく劣った商品の生産だったわけだ。
というわけで、今度は、世界経済的文脈で分析してみよう。