生産計画を立案する当局が、社会のあらゆる需要の変動とか技術開発の状況を把握していて、あれこれの地方や集団、個人の欲求のあり方をすべて把握していれば、あるいは中央計画は生産の将来を予測計画できるかもしれない。だが、そんなことは不可能である。
実際には、国家の支配階級が自分たちの望む方向やイデオロギー的に要請される方向に経済活動を動かしていくために、政治的に打ち立てられた需要予測や技術開発の方向だけを指標にして、生産計画を立てて、それを政治的に無数の国有ないし国営企業に押し付けるだけでしかない。
ここで、ソヴィエト社会での経済・生産活動もまた、社会のさまざまな地方に散在する、立地条件や規模などがまちまちの個別企業によって、分散的に担われている。これらの企業の実情はストレイトに国家と党の中央に把握されるのではない。
地方ごとや部門ごとの国家行政組織や党組織をつうじて、政治的なバイアスを受けながらフィルターにかけられながら、上位組織に伝達収集されていく。つまりは、指導部の覚えがめでたいような情報が選好・選別されて、手を触れたくない問題や課題は見て見ない振りをされて削ぎ落とされていく。
西側のように、個々の企業が私的利害を追求する企業家や経営者によって支配統制されている方が、個別企業の実情や個別市場の需要動向はまだしも正確に捕捉されるだろう――総体としての市場の無政府性は変わらないが。ところが、巨大な国家機構をつうじての経済情報の集約は、人類社会のどこでも西側だろうが東側だろうが、政治権力闘争や駆け引きなどで歪むのが実態だ。
それゆえ、ソ連では西側とは外観が異なる《生産の無政府性》が経済活動のなかを吹き荒れていた。むしろ、市民個人の消費欲求が表明発信される市場機構が存在しないために――市場外の政治機構をつうじてのニーズ表明は一党独裁によって封殺されている――、ほとんど需要・ニーズの質や量とはかけ離れた生産・供給がまかり通っていた。
しかし、国家の中央計画こそが生産の無政府性を克服する方法であって、不況を予防し、分配の格差を解消する手段なのだ、と言い張る当局はそこに「社会主義性」(ないしはソヴィエト社会の西側に対する優越)を見出していた。
だが、生産の無政府性と分配の格差・不平等は解消するどころか、固定化し拡大していった。党と国家組織のなかでより優越する地位を占めている個人や集団ほど、俸給や消費水準(消費の質)で優越を達成する仕組みができ上がっていった。つまりは、党や国家での権力関係によって生産手段の運用・統制に対する地位(影響力の大小)が決定され、それゆえまた分配・報酬の大きさが決定される。
この実態は、さまざまなレトリックによって装飾されているけれども、生産手段を所有支配する資本家=企業家階級と従属的な労働者階級という、資本主義的モデルの社会関係とまったく同じではないか。
しかも、政治的市民社会では、ソヴィエト市民たちはあれこれの自由権(言論、表現、抗議や請願などの自由や権利)を抑圧されているだけに、権力と分配における格差・不平等を修復する回路がないし、修復メカニズムははたらかない。
わずかに所得の再分配でもある医療や社会福祉、教育などは無償でおこなわれているが、そのために必要な財源としての剰余価値は、経済と企業の国有・国営制度によって賃金=給与所得としての分配よりも前に控除――国庫に納入――されている。